マックス・ウェーバー「行動と行為」の違いを考察。

マックス・ウェーバー雑談哲学

あなたは行動と行為の違いが言えますか。

マックス・ウェーバー(1864~1920)はこの2つを分けました。(社会学用語図鑑 参照)

行動=条件反射や無意識など、自分の意志がともなわない振る舞い
行為=自分の意志がともなう振る舞い

(哲学において自由意志の問題はあります。)

例にして説明します。

行動は熱いものを触ったときに思わず手をひっこめたり、寒いところに出たときに体が震えたりする振る舞いをいいます。

行為は「ゲームをしよう」「勉強をしよう」「〇〇をしよう」といった意志が伴う振る舞いです。

ウィーバーは行為の中でも他人を意識した行為を社会的行為と名づけ4つに分類しました。
伝統的行為・感動的行為・価値合理的行為・目的合理的行為です。

ここではすべては詳しく見ていきません。

伝統的行為感動的行為を考えていきます。

想像してみて下さい。

あなたはドキドキしました。

これは行動でしょうか、行為でしょうか。

私から見たら反射的に出てしまった行動といったんは名前をつけるかもしれません。

しかし、他人がみたらドキドキはわかりません。

なので、ドキドキしているその状況を見て、他者に対して笑いかけていると思ったことから、感動的行為と名付けるかもしれません。

他者目線でみるとき、私たちは意味付けしています

この行動と行為が自分目線と他人目線でつける社会的な違いは、「ノーカリキュレーション(計算のない行動)」を考察していく手がかりになると私は考えています。

愛や道徳を考察するときに欠かせないノーカリキュレーションを、行動と行為の違いから見ていきます。

まずは行動について細かく見ていきましょう。

ドキドキドキ。

ハラハラ、ソワソワ、ドクドク。

行動とは

マックル・ウェーバーの行動の概念を見ていくと、行動それ自体が計算がなく意味付けしない振る舞いになっています。

行動=計算のない行動(ノーカリキュレーション)

では、行動を広辞苑で見てみます。

行動
①ある事を行うこと。
②人間や動物が示す観察可能な動作や反応。

これらのことを行動といいます。

ドキドキは行動なのか、といった問いを私は始めに立てました。

実際の例で熱さから手をひっこめた、寒さから体が震えているという反射的な反応と、ドキドキは一致するのだろうか、と疑問に思ったからです。

どこが違うのかというと、まずは初めに持ち出す対象がはっきりしないという点です。

熱さ⇨手をひっこめる
寒さ⇨体が震える
おいしさ⇨唾液がでる

目で見る⇨ドキドキする
抱きしめられる⇨ドキドキする
においを嗅ぐ⇨ドキドキする

このように、対象がはっきりしなくてもドキドキしてしまうのです。

では、生物学・脳科学の観点からも見ていきましょう。

反射とは

違いを考察するために、反射とは何かをみていきます。(脳と心の科学 監修者-篠原菊紀 2019 参照)

反射とは「感覚器官に与えられた刺激が、大脳まで伝わらず、脊髄などの反射中枢を経て、意識と無関係に規則的に特定の筋肉や腺などの活動を起こす現象。転じて、無意識的な行動。」(広辞苑
とあります。

私はノーカリキュレーションを反射的だと捉えています。
反射的とは「刺激に対して瞬間的に反応するさま。」(広辞苑)を言います。

反射的がノーカリキュレーションにおける”計算のない”に含まれると思われるからです。

では、先ほどの例にそって反射を見ていきます。

熱さ⇨手をひっこめる
寒さ⇨体が震える

これらは無条件反射と呼ばれています。
大脳に伝わる前に、生まれながら先天的に、身体が反応することです

つまり、脳が熱さや寒さを認識する前に、身体が動いてしまうことをいいます。

熱いヤカンを触る⇨手を引っ込める⇨熱いと感じる

大脳を通さずに反応します。

次に条件反射を見ていきます。

おいしさ⇨唾液がでる

おいしさを経験していないと唾液はでてきません。

経験などで後天的に獲得された反射行動を条件反射といいます

条件反射の研究はまだ進んでいて、脳以外の部位に記憶が存在すると言われているプラナリアなどでも条件反射をするという実験結果もあるようです。

ここで反射についてわかったことは、先天的・後天的だとしても同じようにノーカリキュレーション(計算のない行動)をする、ということです。

次に脳科学における感情反応を見ていきます。

ドキドキとは

実験では大好きなヒトを見ると、ドーパミンの分泌が増すということがわかっているそうです。

目で見る⇨ドキドキ(ドーパミン分泌)

他にも鼻で感じることができるオキシトシンという絆ホルモンがあるそうです。

匂いを嗅ぐ⇨ドキドキ(オキシトシン分泌)

またスキンシップで放出されるセロトニンやオキシトシンがあります。

抱きしめる⇨ドキドキ(セロトニン・オキシトシン分泌)

人によって何が優位かというのは違うと言われているので、ここでは様々な例を出しました。

ここで言えることは、ホルモンも無意識に放出されている、ということです。

そのような意味で反射的な行動ととれるのです。

ただ先ほどの反射と違う点は全体を捉えたときに、とっさに、という言葉がつかないことが多くあります。

何かのホルモンの放出が一定量溜まると、そこでドキドキと意識できるような反応になるからです。

何か同じものを見ていても、時間が経つにつれてドキドキしだすこともあります。

なので、ここでは反射的に、身体が勝手にホルモンをだしていると推測します。

ホルモン量が多い、少ないの違いです。

また実験で、サルにトリと犬の写真を見せた場合。

サルはトリが好きだと判断していたけれど、犬の写真を見せたときにジュース(報酬)を与えることを繰り返すと、犬の写真を好むようになるという実験結果があります。

先天的⇨トリの写真が好き
後天的⇨犬の写真が好き

これは、後天的にホルモンも操作できるということを示します。

先天的・後天的の判断がとっさにはつかないことがわかるのです。

つまり、どちらを選んでもノーカリキュレーションだと捉えます。

さらに、私はなぜ心臓だけを区別する必要があるのか、という問いをたてました。

手がとっさに動く、身体がふるえる、このような反応を反射と捉えたときに、心臓が強くドキドキしたことも他の部位と同じように反射的だと考えたからです。

哲学ではデカルト以来、心身二元論に基づいて私たちは解釈することが増えてきました。

これは心と身体をわけて考えています。

しかし、心と身体を分けない捉え方をすると脳科学の実験が上手く説明できる例があります。

私はここにおいてドキドキを他の身体の部位と区別しません。

反射を感覚、心も感覚で捉える場合、思考感覚をさらに考えていきたいのです。(今回は取り上げません)

では、反射とドキドキを踏まえて、マックス・ウェーバーの伝統的行為感動的行為をみていきましょう。

見つめていたらドキドキしてきた。

ロボット欲しくなったの?ホルモンの影響かな。

伝統的行為と感動的行為と行動

行為とは自分の意志がともなう振る舞いです。

そこからさらに分岐させます。

社会的行為ではない行為(他者を意識しない行為)
社会的行為(他者を意識した行為)

この区分けは他者を意識していないか、しているかです。
例えば、社会的行為ではない行為は、1人でゲームをしよう、1人でマンガを読もう、など他者を意識しない行為になります。

ここで考察するのは、他者を意識する社会的行為です。
ウィーバーは社会的行為の4類型を述べました。

①伝統的行為
②感動的行為
③価値合理的行為(自分の信念や価値観による行為)
④目的合理的行為(目的達成のための行為)

この①伝統的行為と②感動的行為を考えていきます。

ちなみに、ウェーバーは①②は非合理的行為、③④は合理的行為だと分けています。

つまり①②においては非論理的であったり、非能率的であったりします。
では、詳しく見ていきます。

伝統的行為と行動

ウェーバーは伝統的行為とは、習慣から生じる行為だと述べました。

例えば、朝起きること、挨拶すること、学校へ行くことなどです。

私達はこれらの行為を無意識的におこなうことがあります。

しかし、これを私はノーカリキュレーションとは違うと考えています。

どの点で違うかと言うと、この行為が伝統的行為にカテゴリー分けされているからです。

他者を意識した振る舞いは行為になります

行為に分類される「あいさつする」という振る舞いは、他者を意識した行為になります。

もし、ここに他者が存在せず、私が私の視点でとっさにあいさつが口をついてでたら、条件反射に加えられることで行動になるかもしれません。

しかし、他者意識をせずにあいさつをすることは想像が難しい。

独り言ではあいさつが無意識的にはでてこないと考えるからです。

あいさつはノーカリキュレーション(計算のない行動)にはなりません。

朝起きる、学校へ行くなども無意識的でもノーカリキュレーションにはならないのです。

無意識的に行っているように思われても、ここでは他者が意識されています。

私は習慣から生じる行為と、経験的な条件反射は分けられると考えます。

さらに、感動的行為を考えていきます。

おはよう。

あっ、おはよう。(これは無意識に反応してしまったけれど、私は何かしらの習慣的行為からとっさにおはようを返したようだ。この心の声は行為的。)

感動的行為

感動的行為とは感情から生じる行為のことです。

例えば、笑い合う、怒る、喜ぶといった行為になります。

これらの行為も無意識的な行動に思われがちです。

ドキドキが顔を喜びの表情にしていた、ということがあるからです。

ドキドキを喜びだとか、笑い合うことだとか規定した場合は、行為になります

けれど、ホルモンは自然に放出されており、感情を規定することはしていないのです。

それは、私が笑顔だと思ったから笑い合いになり、喜びだと判断されているのです。

ドキドキは感情を規定しません。

なので、喜怒哀楽を名づけた時点でノーカリキュレーションにはならないのです

以前、「愛はそこにただ在る」と表現しましたが、その場合は感情と切り離されているので場合によってはノーカリキュレーションになります。

感情を規定することは他者を意識する行為になります。

習慣と感情は社会的。

言葉にすると気がつくね。

行動と行為の違いの例

複雑な例で想像してみます。

例えば、あなたは親になったとします。

保育園や幼稚園の送り迎えをするようになりました。

親になることで、子どもたちが何をすれば喜ぶのか習慣的に学んでいきます。

そこで、他の子どもに「バイバイ」と手をふられました。

親になる前は、子どもに手を振られたときに手を振り返せなかったとします。
ただ手は降らずにただ微笑むことをしていました

そして親になることで手を振り微笑むことができたとします。

子どもが手をふる⇨手をふらず微笑み返す
子どもが手をふる⇨手を振り微笑み返す

一見すると、学んだことでノーカリキュレーションが増えたのかと思われるかもしれません。

しかし、これはどちらも他者を意識する行為になっています。

手を振らず微笑み返す⇨感動的行為
手を振り微笑み返す⇨伝統的行為と感動的行為

学ぶことで、伝統的行為が増えたのです。

ノーカリキュレーションは計算のないとっさの行動なので、そもそもノーカリキュレーションが経験で増えていくと考えることは間違いかもしれません。

行動は社会的ではありませんが、私たちは社会的に意味付けされた行為を学んでいくからです。

では、なぜ倫理には学びが必要だと言われるのでしょうか。

例えば、ソクラテスは主知主義を唱え、知と徳は結びつき、知識を得ることが善い行いを判断できるようになることだと述べました。

つまり、人間は元々は性善説・性悪説が適応されるかわからないのですが、判断により道徳的・倫理的な社会的行為は増えていくと言うことです。

学ぶことで、人は社会的な人間になります

また、ノーカリキュレーションの例、井戸に落ちそうな子どもを助ける、からもみてみます。

そこには習慣的な行為はありません。

感情的な行為もない。

そもそも、その子どもがどう思うかということを考えていません。

これは、他者を意識しない振る舞いということになります。(状況による誤差はあります)

バイバーイ!ニコッ。

社会的だね。

マックス・ウェーバー「行動と行為」まとめ

マックス・ウェーバーの「行動と行為」の分け方を考察してきました。

行動=条件反射や無意識など、自分の意志がともなわない振る舞い。
行為=自分の意志がともなう振る舞い

無条件反射条件反射ドキドキの振る舞いが行動であること。

習慣的行為感動的行為などの他者を意識した振る舞いは行為であること。

また、これらを見ていくことでノーカリキュレーションを詳しく見てきました。

私はノーカリキュレーションに倫理や愛などの直観的なことを見ています。

区別していくことで、直観的なことの考察が可能になります。

他者を考えると自己愛になったり、考えないと倫理だったりするのはおもしろいね。

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