哲学者ショーペンハウアーはその著書「女について」から、女性の敵だと見られています。
古典的女性観を賛美し、女性の特定の物事の見かたを批判しています。
ただ、近年では表現を変えて「女性脳」や「男性脳」といった特徴を書く本が売れています。
これは、女だから女性脳、男だから男性脳と言っているのではなく、人にその傾向を見ているということです。
これらは、あまり批判を受けることがありません。
ショーペンハウアーは、愚かとか、劣るという表現を使うので差別だと取られます。
彼が述べるいくつかのことから、好奇心の違いに焦点を当てていきます。
性差を振り払って、現代社会における批判を見ていきましょう。
ショーペンハウアーの女性像
「女について」の書評では、「近代哲学の父が語る古典的女性観」と書かれています。
古典的女性観の背景にはジェンダーが見られます。
ジェンダーから読み解く
ジェンダーとは社会的・文化的に形成される性差。
作られた男らしさ・女らしさのことを言います。(広辞苑 参照)
「女は、人生の責任、いわば、負債を、行為によって償うのではなく受苦によって、つまり、分娩の苦しみとか、子供の世話とか、良人に対する服従ー良人に対して、妻は、常に、辛抱づよい快活な伴侶でなければならないーなどによって、償うのである。」
このくだりはジェンダーが見られます。
人生の責任を子育てと伴侶に服従することで償うという見方です。
ジェンダーは人為的に作られた性差なので、時代を読み解くためには必要です。
古典的女性観をショーペンハウアーは批判していません。
子育てをする女性、愛情にあふれた女性、優しさなどには賛美を贈っています。
賛美を贈るだけなら、問題にはなりません。
この本が女性の敵と見られたのは、彼が母親のような女性に対して批判したからです。
つまり、社交界で派手に振る舞う自立した女性をショーペンハウアーは批判しました。
彼の母親は人気のあった作家です。
近代的な知性を持っていて、息子を愛せなかった女性です。
こんなエピソードがあります。
「一家族に同時に二人の天才がいるという話を、母は聞いたことがなかった。
母は息子を嫌悪し、口論から階下へ息子を突き飛ばす。
そのとき、息子(ショーペンハウアー)は叫んだ。

あなたは、ともかくわたしのおかげで、後世に名が残るんですよ。
親子の対面はこれが最後だったと言われている。
(ショーペンハウアー25歳頃)」
ショーペンハウアーが女性をみることで捉えた特徴を見ていきます。
女性批判から読み解く
「不幸な人を見た場合、女性は、男性にくらべて、より多くの関心をもち、より多くの同情と人間愛とを示すけれども、反対に、正義とか忠実とか確守とかいう点では、男性に劣る」
「女たちの最も好むところは、まさしく、社交ということである。」
この2つの文から推測されることは、女性は共感能力が高く、より社交的だとショーペンハウアーが捉えていたということです。
なぜこれが批判になるのかというと、彼は普遍的な真理を追究しているからです。
個人のことだけを考えて、普遍的な真理に考えがいかない思考法を批判しています。
次の章で好奇心と絡めて説明します。
また、ショーペンハウアーは女性の物ごとを把握する方法を語ります。
「女たちは目標への最も短い経路を好み、一般に、最も身近にあるものを眼中に置くので、男子が、とかく、そのようなものを、かえって、それが自分の鼻先にあるために見逃してしまうといったような場合に、やはり、手近かで簡単な見かたを得るためには、婦人と相談することが役に立つからである。」
身近にあるものに好奇心をめぐらすというのは、女性よりも子どもを想像させます。
現に彼は女性を大きな子どもだと捉えています。
「女というものが、みずから、子供っぽく愚かしくて、その上、身近の物ごとだけを見ている、いわば、一生、大きな子供であり、要するに、子供と、真の人間である成年男児とのちょうど中間に位する段階に属するからである。」
これらの女性観を好奇心という観点から分類してみていきます。
その前に、男性・女性という見方からの解放も述べておきます。
女性を見下してしまう見方を、選挙権がなかった時代から考察しましょう。
フェミニズム運動
19世紀になって女性の参政権や、教育を受ける権利や労働の権利を得るための運動が盛んになっていました。
ショーペンハウアー(1788~1860)はその頃の人です。
18世紀に市民権がルソーなど啓蒙思想家によって説かれました。
実はその市民権には、女性の権利が主張されていませんでした。
ショーペンハウアーはこの本を書くことで女性の敵になりましたが、実はその頃の文化人も女性に対して同じような古典的女性観を持っていました。
それに対して、マルクス・ガブリエルはこう言います。
ショーペンハウアーは人に対抗するための自由を奪うリストを作る名人です。
「時代を経た私たちには、それらのテキストはイデオロギー色(疑似意識)のあるものであることが分かります。
それは、そのような本質を作り出すことで、ある種の社会構造を正当化しようとしているのです。」(私は「脳」ではない 参照)
例えば、ルソーが市民権の取得を言っている場合、ここには女性は入っていません。
これが、イデオロギーです。
それが正論であるかのように語られます。
しかし、時代を経てそのイデオロギーから解放された私たちは、自然とルソーの言うことにすべての人を含めます。
つまり、市民権の中に女性を入れて考えているのです。
マルクス・ガブリエルはイデオロギーは時代と共に解かれていくけれど、それを待ってはいられないといいます。
ちなみに、彼は私は脳という見方のイデオロギーを取り払おうとしています。
古典的女性観のイデオロギーを取り払って、ショーペンハウアーの言いたかったことを見ていきましょう。
好奇心を分けて考える
ショーペンハウアーの物事の見方を、好奇心という観点から見ていきます。
「子どもは40000回質問する」(イアン・レズリー2016)を参考にします。
本では好奇心を分けて考えていました。
言語を理解する天才サルのカンジが出来なかったこと。
それは、質問。
質問によって満たされるものは好奇心です。
筆者は好奇心に焦点を当てて分類していきます。
「子どもは触ってはいけないものに手を触れ、ドアが開いていれば外へ駆けだし、土くれを口に入れずにはいられない。心理学者はこんなふうに目新しいものすべてに引きつけられることを『拡散的好奇心』という。」
人が知りたいという心のうずきを筆者は「拡散的好奇心」と言いました。
この拡散的好奇心はカンジでも見られます。
人とサルをわけている好奇心は次に述べる好奇心です。
「拡散的好奇心がうまく導かれ、知識と理解を求める意欲へと変われば私たちの糧になる。このように意識的に訓練をしなければ身につかない奥深い好奇心こそが『知的好奇心』だ。」
拡散的好奇心から深くものごとを探求していこうとする姿勢が「知的好奇心」です。
最後に、他人の考えや感情を知りたいことを意味する好奇心を「共感的好奇心」と述べています。
「共感的好奇心は噂好きや詮索好きとはちがう。
噂や詮索は他人の人生の表面的な事柄に向けられた拡散的好奇心と言えるだろう。
それに対して共感的好奇心は、話している相手の立場に身を置き、さらには気持ちに寄り添おうとするときに発揮される。」
図にします。
⇩
知的好奇心
共感的好奇心
筆者は拡散的好奇心だけでは危ないといいます。
それは、子どもに見られるように何でも食べようとしたり、勝手に外にでようとしてしまうことです。
2007年にアメリカで銃の誤射によって命を落とした子どもは122人、けがをしたのは3060人にのぼり、その数字は減る様子がないと本では述べていました。
拡散的好奇心から、銃の取り扱いの知識を身につけようとする知的好奇心にいかないと事故を起こします。
また、噂や詮索だけされるのも、コミュニケーションにおいては印象がよくありません。
こちらも、拡散的好奇心から共感的好奇心に移る必要性を感じます。

これは何ていうの?

これはカブトムシだよ。

飼う!そのためには何が必要?

知的好奇心に移ったね。

カブトムシにはどんな世界が見えているんだろう。

共感的好奇心も出てきたね。
イアン・レズリーの主張
筆者は、今の時代は拡散的好奇心が満たされる時代だと言います。
何か疑問を持ったとしても、グーグルに聞けばすぐに答えを教えてくれます。
グーグルによってすぐに答えを得られるということは、この望ましい困難を体験しないということです。
拡散的好奇心だけでも、困らない世の中をグーグルはつくろうとしていると筆者は述べます。
詳しくは
>>子どもは40000回質問する(イアン・レズリー 2016)
本からは拡散的好奇心から、知的好奇心と共感的好奇心を育てようという主張が見られました。
またショーペンハウアーの論に戻ります。
批判されている好奇心
ショーペンハウアーが好奇心について述べている文を参照にします。
「知識欲は、普遍的なものへ向かうときには学究心と呼ばれ、個別的なものへ向かうときは好奇心と呼ばれる。ー女性は普遍的な物事に対する感受性がないので、個別的な事柄に眼をつけるのが特色である」(知性について)
ここで、男女を取り払うと見えてくるもの、それは好奇心に対する分類です。
ここでは学究心を知的好奇心と入れ替えても通じます。
そして、個別的なものへと向かう好奇心は、拡散的好奇心と共感的好奇心です。
先ほどのショーペンハウアーの女性観から言えば、より多くの関心をもち、より多くの同情と人間愛とを示すのが共感的好奇心。
身近で簡単な見かたというのは、拡散的好奇心です。
男女差で比較していますが、この好奇心は人間なら誰もがもっている好奇心です。
多い少ないはありますが、例えば、恋愛では相手に寄り添おうとします。
では、なぜショーペンハウアーは共感的好奇心をよく思わなかったのでしょうか。
天才に見られる共感的好奇心の偏り
ショーペンハウアーは天才主義とも言われます。
客観的知性を持つ天才を高く評価しています。
以前、フィルター理論の話をしました。
>>フィルター理論とは。ーシングルタスクをおすすめする心理学
この中で、人間はただ一つのことしか考えられない。
優れたまともな思想が訪れてくる道をいつでもあけておくというショーペンハウアーの思想を紹介しました。
彼は言います。
天才が実際生活への資質をあまり多く具えていないということを。
ここでは、「ざんねんな偉人伝ーそれでも愛すべき人々」(真山知幸 2017)を紹介しながら、例を出していきます。
ざんねんな偉人たち
☑エジソン
彼は研究のことで頭がいっぱいになり、他のことが考えられなくなった。
自分の名前や妻の名前も忘れる。
仲間の研究員を「死体復活マシーン」で酷使したそうです。
☑ニュートン
彼は食事を忘れることはたびたび、ズボンをはき忘れることも。
「イギリスの科学を100年遅らせた」と酷評される性格のひどさもあったそうです。
☑カント
「結婚においては、愛情より経済的裏づけが大事であり、妻は料理が上手でなくてはならない」
このように述べ、意中の女性を逃してしまったそうです。
カントを見れば時間がわかると言われるくらい、規則正しい生活をしていたと言われています。
他にも、お金の管理ができない偉人や、人に軽薄だとみられていた偉人、不衛生だった偉人の例を紹介しています。
ここでの偉人に共通しているのは、知的好奇心が強すぎて共感的好奇心を示せなかったことです。
周囲から批判されたり、個性的だととられた人々が、歴史に名を刻む仕事をなしとげています。
ショーペンハウアーにとっては、周りの評価はさておき、普遍的真理を見つけ出すことに価値をおいているのです。
ただ一つのことを考えて、周りのことは考えられなかった天才に敬意を払っています。
ショーペンハウアーにおける共感的好奇心の偏り
ショーペンハウアーも恋愛はしましたが、生涯独身でした。
女性嫌いだったという面を持っていたそうです。
(ニーチェも女性嫌いだったと言われています。)
女性のお手伝いさんをうるさいからと追い払ったところ、それが訴訟沙汰になったことがあると言われています。
偉業を成し遂げたとしても、理想的な人格者とは言えません。
フィルター理論で言えば、頭での考えが普遍的真理や自然な物事、客観的に把握される物事に集中して、人に共感できませんでした。
ショーペンハウアーはそれも体系づけます。
☑自分のために思索する人
☑他人のために思索する人
人の思索のタイプを2つに分けて、自分のために思索する人が真の思想家だとしたのです。
さらに、ショーペンハウアーはこう語ります。
「作品は作者の精神のエキスである。」
「だがこれに反して、彼の身辺事情は我々に何の興味も与えることができないのである。」(読書について)
文は文として見るべきで、その背景を探ることはすべきではない。
>>「作者の死」ロラン・バルトから読書について考える。
このように考えを述べます。
私がショーペンハウアーの親子関係を歴史から読み解くことも、彼にとっては忌むべきことです。
ショーペンハウアーは共感的好奇心に比重がかかることを批判します。
社会に出ると勉強しなくなると言われる現代。
知的好奇心を持たずに、共感的好奇心だけが伸びていないか、自分を見つめなおす機会を与えてくれます。
共感的好奇心の偏りを意識したところで、二つの好奇心の相乗効果も見ていきます。
知的好奇心と共感的好奇心の相乗効果
ショーペンハウアーは自分のための思考を真だとしましたが、他人のための思考、自分のための思考の両方が現代においては重要視されています。
国語のテストでは、小論文と物語文の両方から問題が出ていますね。
両方が重視されているということです。
そして、私たちは偉人の身辺事情に興味を覚えます。
「やばい世界史」や「ざんねんな偉人伝」が売れている背景には、私たちが共感的好奇心を働かせているからです。
イアン・レズリーはこう述べます。
「共感的好奇心は知的好奇心がなければ成り立たない。」
「自分の人生とかけはなれた人生がどんなものなのか、ある程度知識がなくては考えられない。」
二つの好奇心の相互作用を述べているのです。
知的好奇心だけでは、自己中心的な考え方になってしまう。
偉人と言われた哲学者が現代ではイデオロギー色が強いとみられるのも、共感的好奇心が弱かった例ととれます。
そして、共感的好奇心だけでは相手を知ることはできません。
二つの好奇心を重ねることで、より広い視点が持てます。
まとめ
哲学者ショーペンハウアーはその著書「女について」から、女性の敵だと見られています。
けれど、彼に限らず時代のイデオロギーによって、その見方は他の哲学者にも見られます。
そのイデオロギー色を取り払うと、また他の問題となって私たちの前に現れます。
ショーペンハウアーが批判した見方を好奇心という観点からみていきます。
「子どもは40000回質問する」の著者イアン・レズリーは好奇心を分けて考えました。
拡散的好奇心がまずあり、それが知的好奇心と共感的好奇心になっていくと言います。
現代社会では、拡散的好奇心だけで私たちは満足してしまうという弊害を述べました。
ショーペンハウアーが述べる批判は、拡散的好奇心と共感的好奇心だけが伸びやすい見かたに向けたものです。
知的好奇心がなければ、普遍的真理を追究したり、学究心を高めたりすることはできません。
ただ、逆に知的好奇心だけが伸ばされた場合の欠点も、現在売れている「ざんねんな偉人伝」から述べました。
いくら天才であっても、共感的好奇心がなければ時代のイデオロギーを取り払うことはできないのです。
ショーペンハウアーの女性観から好奇心の見方を考えたときに、より知的好奇心と共感的好奇心の必要性が見えてきます。

偉人のエピソードを聞くと、身近な人に感じられるね。
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