エピクテトス

奴隷の哲学者エピクテトスの考えを現代と照らし合わせてみる。

 

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昨日、ポッドキャストの人から英文のメールが来ていたんですよ。

ポッドキャストにランキングに載っているから、その分析のソフトを買わないかって。

結局は宣伝だったんですけど、初めてポッドキャストを意識できました。

哲学部門で最高20位になっていたみたいで、聞いてくれる人がヒマラヤ以外にもいるんだなって思ったんです。

かといって、まだ分析とかはできていないんですけど。

 

今日は、奴隷の哲学者エピクテトスの「人生の授業」という本を読んだので、そのことと私にあったこととを絡めて話そうかなと思います。

どうかお付き合いください。

 

エピクテトスはローマ帝政期で、貴族・平民・奴隷と階級に分けられていた頃の人物です。それで、エピクテトスは奴隷階級の人物だったみたいです。

 

この頃って、階級によって何もかも決められていたんですよね。

今みたいに資本主義ではないから、何か努力してもその階級がかわったわけではないんです。

で、その中で、どんな階級であっても「よく生きる」ためにはどうしたらいいのかというのを説いた哲学者です。

主には、「我々次第であるもの」と「我々次第でないもの」を分けて考えよう、といっていました。

何か、心を騒がせる何かがやってきたとしても、それはやってきたものであって、自分次第のものではないんですよね。

なので、自分次第でないものには心を囚われないようにしよう、と言います。

主なものとしては、「死」ですよね。

私に死期が近かったり、誰かがいなくなってしまっても、それは自分にはどうすることもできなかったから、それに思い悩むのはやめよう、というように捉えられます。

確かに、死とか病気はまぬがれないし、どうすることもできない。

だから、課題の分離は必要だなって思うんです。

 

それでも、私が思うのは、昔よりも階級制度がなくなっている分、現代は選択の幅は増えているなって思いました。

例えば、今は資本主義社会なので、お金ですね。

たぶん、副業に力を入れている私は、お金の欲にとりこまれているかもしれないんです。

 

でも、私はその副業によって努力しているとか、成長していると思う自分が好きになれているんですよ。

結果は別としても。

何もやらずにいるよりは、生き生きとしていると自分では思っています。

 

そして、それはこのエピクテトスの批判ではないんですよね。

エピクテトスは自分を深く見つめようって言うんです。

「よく生きる」というのは絶対的な指針のようでいて、自分の心によっているんです。

それで、自分は何をよいと思うのかを考えていくんです。

 

ここでは、「よい」という一つの基準の中に相対的な一人一人の欲望や判断、意欲、忌避(きひ)という自分次第であるものを加えています。

この中に自分次第でないものは省いていきます。

アドラー心理学の課題の分離と似ていますよね。

 

ここに私はいまやっている副業を当てはめます。

私の欲として、私のやりたい行動が欲望に入っている。

そして、その欲望は誰かによって与えられるものではなくて、自分で獲たいと思うものなので、そのまま副業を続けるという判断を私はまずします。

特に、お金自体それだけというような、私以外からくるものだけが目的ではないからそこはお金稼ぎをする副業であってもいいんですよね。

そして、それをやると燃えて楽しいので、意欲できます。

かつ、忌避なんですけど、向こうからやってくるものは避けられないから避けないんですけど、自分で避けられるものは避けるんです。

私の場合の捉え方だと、かえって私が苦手を避けないことかなって思いました。で、避けないとするから、機械音痴の私が副業でブログに詳しくなろうとしているんですよね。

 

こうやって「よく生きよう」としたときに、これは自分自身を見つめなおして「よく」いきられることなのかなって思いました。

 

だから、努力をしないわけでもないし、自分の欲望をそのままあきらめるわけではない。

考えが自由になる一つの方法としてこのエピクテトスの考え方は受け入れられるんだろうと思います。

この階級の世代から、少しは自分での裁量が増えた現代の資本主義の環境に合わせて考えていくことも可能なんですよね。

 

私はいつも、よく生きる、という絶対主義の中に、相対主義をよく見ます。

「よく生きる」の何がよいなのかに関しては、人によって分かれますよね。

だから、相対主義と絶対主義はそこまで離れているわけではない。

 

後はこの本を読んで、私が参考にしたいのは、君は演劇の俳優である、という文です。

私たちは何かしらを演じているんですよね。

演じているだけで、そのものになっているわけではない。

私は昨日、仕事で失敗をしてしまって叱られました。

これは真摯に引き受けなければいけない。

そう思うのは、社員としての演劇にいる時分ですよね。

そうやって反省することが求められる。

ただし、またこれを客観的にみると、社員としての私がだめだったわけで、またそれを演じればいいんですよね。

哲学では何を基礎においていいのか迷います。

なので、その演技をしているときは、その演技に合わせて反省をしたり、その行動をとろうと心がけていくのがいいのかなって思いました。

演技の最中に自分を出すと、何がいいのかわからなくなってきます。

私がしたいことも、私がどう評価をうけたいのかも、私の判断がつかないんですよ。

だから、私が思う会社員としての演技の中で、こうやって対応すればよいだろう、というのを客観視しました。

また私の上司についても客観視できます。

上司は今、上司という演技をしなければいけない。

それにはこんな行動をとらなければいけないし、そうとっているんだろう、と。

それでも、客観と主観って結びついているんですよね。

どうしても切り離すことはできない。

なので、やっぱり落ち込みはするな、と思いました。

こんな感じで書いているので、長く落ち込んでいることはないんですけどね。

 

今日はエピクテトスについて話しました。

哲学は幅が広く、自由な側面が多いです。

なので、自分に当てはめて考えられます。

良いところは参考にして、悪いと思ったところはまた考えていくんですよね。

では、今日もお聞きいただいてありがとうございました。

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