今をときめくマルクス・ガブリエルの著書『「私」は脳ではない』では、私が脳であるという考えを否定しています。
今の科学の世の中では、私たちは気がつかないうちに私は脳であることを受け入れています。
ここで、私といっているのは心です。
その無意識に持っている思考を表面化していきます。

自分を知ることにつながるね。
続哲学用語図鑑参照
機能主義とは
機能主義とは、心は機能によって定義できると考える立場です。
具体的に見ていきます。

1+1を問題として出された!
まず五感で問題を知覚します。
すると、心は計算のやりかたという信念を生み出します。

この1とこの1が合わさる計算のやり方は正しい!
僕は計算ができるんだよ!
そして、この信念が正解をだしたい!という欲求に変わり、答えを出します。
その欲求が原因となって、回答するという行為を引き起こします。

先生!この答えは2。
回答を言うという行為が引き起こされました。
五感で知覚→心は信念を生み欲求に変わる→行為を引き起こす
という段階が、答えを出すまでに起こります。
これを図で書いてみます。
このような行動を起こさせる機能が心だと考えることを機能主義といいます。
この機能主義はコンピューターになじむ私たちには、理解しやすい発想です。
この構造をコンピューターで代用しても成り立ちます。
↓
ハードウェアがプログラムによって計算
↓
2という解が出力
このハードウェアを脳、プログラムを心に置き換えます。
↓
脳が心によって計算のやり方を正しいと思って計算をする(原因)
↓
2の数字だと言う行動(出力)
では、心が脳の機能であるとはどのようなことでしょうか。
思考実験「水槽の脳」から考察してみましょう。
機能主義から「水槽の脳」を考察
機能主義を唱えた一人、ヒラリー・パトナム(1926~2016)は「水槽の脳」という思考実験を考えました。
具体的にみていきます。

私はすごい装置を開発した!
バーチャルリアリティーによって生きられる水槽の装置だ。

どんな装置?

まず脳みそをこの水槽の中に入れる。
それから電気信号を流す。

電気信号が刺激になるんだね。

この刺激で、信念から欲求や感情を引き起こす。
その結果はモニターにでてくる。

モニターに世界が映し出されてる!

これでどんな世界でも体験できる!
脳の水槽は、モニターで見られている世界を生きている。
この映し出されたモニターが私の世界であるということを、否定はできない、という思考実験です。
機能主義によれば、あなたは水槽の中の脳でしかない、という可能性は否定できません。
この心の哲学はデカルトの「我思う、ゆえに我あり」から発生しています。
デカルトはあらゆるものを疑いました。
デカルトは「この世は夢かもしれない」とすべてを疑ってみたのです。
そして、夢かもしれないと疑っている自分の意識を発見しました。
このすべてのものは疑えるという思考を、パトナムは脳の水槽で表しました。
科学の発展により、このような思考実験が生み出されたのです。
水槽の脳は刺激を受けているという点で、脳だけは存在していると感じられます。
しかし、そこで見ている世界はコンピューターが水槽の脳へ送っている情報にすぎないのかもしれません。
この機能主義からは、脳をハードウェアに置き換えても機能すると考えます。
水槽の脳をハードウェアに置き換えたとしても、それが脳なのかハードウェアなのか、わからないということです。
そして、心は人工的に作ることができると考えます。
この機能主義について、心の哲学の歴史から理解を深めていきます。
機能主義を心の哲学の歴史から考察
デカルト以降、心の問題は心の哲学として主要なテーマになっています。
そして、ここには2つの立場があります。
⇔
心は物質だという立場(一元論の物理主義)
デカルトが説いた身体と心を分け、心は単なる物ではないという立場は二元論です。
身体と心など2つ(呼ぶ物はそれぞれ)に分けて論じているので、二元論になります。
今回論じている機能主義は、心は物質だという一元論である物理主義の系統です。
それぞれの立場で、哲学者たちは主張を出し合ってきました。
前の記事で、クオリアについて扱いました。
>>クオリアとはー具体例からわかりやすく解説
この私の主観的な感じであるクオリアがでてきたのは、二元論の立場からです。
ここから、クオリアの存在と科学的な研究を元に議論を進めていこうとする立場も現れてきています。(生物学的自然主義)
そして、一元論でも観念論という立場があります。
>>観念論についてはこちら。
マルクス・ガブリエルの『「私」は脳ではない』によれば、観念論を批判的に継承する立場に立ち、心は単なる物ではないとする説を唱えています。
二元論者なのか、一元論者なのか、その両方の見解をいれているのかをみることで、水槽の脳の捉え方も違ってくるということです。
では、機能主義を批判する論も見ていきましょう。
機能主義への反論
機能主義を批判する思考実験に「中国語の部屋」があります。
アメリカの哲学者ジョン・サール(1932~)によって説かれました。
さきほど少しふれた生物学的自然主義を唱えた人物です。
具体的にみていきます。

私は英国人で、中国語は読めないよ。
おや、一枚の紙がある。
〇〇と書かれていたら、▢▢という言葉を書いてください。

なになに。
中国語をこの通り書けって英語で指示されている。
真似るだけなら簡単!
次に、この部屋には誰が入っているか、という質問を中国人に解いてもらいます。
この部屋の情報はなく、中で書かれた一枚の紙がヒントになります。
その紙には中国語を理解していると思われる文が書かれていました。

中の人は中国人だと思う!
それを見た中国人は、部屋の中には中国人がいるだろうと推測します。
しかし、実際には英国人がいたのです。
機能主義では、脳をハードウェアに例えました。
この思考実験ではさらに、このハードウェアを部屋に例えました。
すると、機能主義のハードウェアの中身は、思考による理解はしていないという結論が下されました。
一般的に言われている機能主義はコンピューター機能主義です。
脳の中身であるニューロンやシナプスなどを調べれば、心がわかるという説です。
しかし、この実験を考慮してなのかブラックボックス機能主義という立場があります。
脳の働きはブラックボックスとして扱うべきだという立場です。
このブラックボックスは神経科学者に任せて、哲学は心が果たす役割を考えればいいという立場です。
ブラックボックスの中身には精神や霊魂など、何が入っていてもよくなります。
機能主義のまとめ
機能主義とは、心は機能によって定義できると考える立場です。
刺激(入力)→ 原因 → 結果(出力)
という行動を起こさせる働きが心になります。
思考実験「水槽の脳」のイメージです。
なので、この立場に立つと私は水槽の脳なのか、そうではないのかがわかりません。
心の哲学の歴史からみると、機能主義は一元論です。
物理主義の系統を引き継いでいます。
これに反対する立場は、心は単なるものではないとする、二元論と観念論の立場です。
思考実験「中国語の部屋」では、ブラックボックス機能主義の立場を強めました。

この現実が夢ではないことをどう証明できるかな。
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