『放下(ほうげ)』は1959年にマルティン・ハイデッガーによって出版されました。
「放下(Gelassenheit)」とは、技術への対し方として、ハイデッガーが到達した概念です。
「原子力時代における哲学」(國分功一朗著 2019)を参考に解説していきます。
「技術そのものはいいけれども、技術が我々を独占するようになってきたら、それに対してはノーと言う。このイエスとノーを同時に言うという立場をここでは『放下』と名づけよう」
このように本では述べられています。
なぜ放下の理解が必要なのか。
それは、ハイデッガーが1955年、原子力の平和利用神話にただ一人、反対できていたからです。
いまでは様々な研究や、3.11の事実から原発反対が唱えられています。
ハイデッガーは当時なぜ反対と言うことができたのでしょうか。
そして、反対を示すためにしたことは何かを見ていきます。
ハイデッガーの思想をたどるにはたくさんの「問い」が必要になってきますので、「問い」を追えるように数字をつけてみました。
「放下」とは何か
「放下」とは技術の対し方として、ハイデッガーが到達した概念です。
この言葉は、元の言葉(Gelassenheit)=(落ち着き)という訳からハイデッガー特有の意味に変わっています。
技術に対してイエスとノーとを同時に言う態度のことです。
技術そのものは使わざるを得ないのでイエスと言う。
我々を「独占」しようとする技術に対してはノーと言います。
問い①では、技術は私たちに何を主張していてるのでしょうか?
イエス、ノーと私たちが言うからには何かを訴えているのです。
本を引用します。
原子技術の支配はますます勢位を高め不気味なものとなっているが、この原子技術の支配ということが、いったい何を意図して目論んでいるのかということ、それを私たちは知らない。技術的世界の意味は己自身を隠している。
「原子力時代における哲学」の引用から抜粋
主張をハイデッガーは秘密と表しました。
技術が人間に主張していることは秘密によってわからないのです。
問い②では、秘密になっているからには、私たちはどうしたら技術的世界の意味を知ることができるのでしょうか。
秘密をあばくにはどうしたらいいかという問いです。
ハイデッガーは秘密になっているものに対して自分たちを開く必要があると言います。
例えば、私たちは何かを閃くとき、閃きがやってくると表現します。
この態度は積極的ではなく、受け身でもありません。
そのような態度(中動態)によって秘密が明らかになると言うのです。
(中動態については後にふれていきます。)
問い③では、ハイデッガーは私たち一人一人の態度がなぜ大切だと説いたのでしょうか。
それは、私たち一人一人に「わかる人にはわかるし、分からない人にはわからない真理」があるとハイデッガーは考えたからです。
分からない人に「わからない真理」を明らかにしようとするには、その態度に言及するしかないのです。
それがわかる態度にしようとハイデッガーは試みました。
では、その態度を細かく見ていきましょう。

秘密。

気になる。知るにはどうしたらいいんだろう。
「放下」を知る重要性
ハイデッガーは『放下』の中で、原子力に対する見解を扱っています。
この本は対話形式でも書かれていて、一見すると原発について述べられているのかわからなくなります。
前の章では何かに対して問いをみてきました。
①秘密を持っている。
②秘密を知るためには自分たちを開く必要がある。
③開く態度とは何か。
これらを細かく見ていくことで、ハイデッガーが私たちに何を伝えたいのかを見ていきます。
①秘密を持っている
秘密を持っている。
この秘密とは、技術的世界の意味であると共に、私たち自身の秘密でもあります。
「私たちが何か目を背けている問題があるんじゃないか。」という視点です。
なぜ私たちは原子力の平和利用神話を信じるようになっているのでしょうか。
一つの回答として、國分氏は原子力信仰として完全に自立したシステムに人々が惹かれたからだと精神分析学から説明しています。
私たちは何かに頼らなくても生きていけるような全能感を幼児の頃に一度失っています。
自我の発達の段階で、その失った全能感を取り戻そうとして、原子力信仰をしてしまうのではないかと本で述べられていました。
これは答えの一つであり、國分氏の見解です。
それに対し、ハイデッガーはその秘密を個人であばく必要があると説いているのです。
一人一人が回答を探す必要があると言うのです。
その為に、自分たちを開くとは何かを見ていきます。

自分一人でできるもん!

自立しようとしているんだね。
②秘密を知るためには自分たちを開く必要がある
秘密を知るために自分たちを開くとは、何を表しているのかを見ていきます。
ここで、一つの概念である中動態を説明します。
中動態とは、動詞が能動態の形をしていながら受動態の意味を表す構文を指して使うことです。(広辞苑)
例えば、
イヤイヤやる。
何気なくやる。
私が私を殴る。
私が私をどう思っているのか感じる。
能動とも受動とも分けられないことに対して中動態と名づけます。
意思も関係なく、能動と受動の外側に存在します。
この中動態という概念はギリシャ語にあった動詞の態で、能動態や受動態では収まりきらないような何かが世界や人間の生には存在していることを表しています。
そして、「放下」はそのような態度なのです。
本で國分氏はこう述べます。
「何か発信されてくるものを受け取ることができるような状態をつくり出すことであり、それが思惟であり放下である。」
思惟が放下だとして、思惟を中動態で考えてみましょう。
ハイデッガーは私たちに「考えることを誘っている」と國分氏は述べるのです。
思惟を中動態で考える
まずは考えるモノを持ちます。
このモノを持つのは受動でも能動でも構いません。
私は考えるモノを持たされた/持った。
そこから状態としての中動態になります。
中動態は過程の状態でもあるのです。
私たちはそこからモノの答えをすぐに出せるでしょうか。
計算なら出せるかもしれませんが、一般的に答えがでていないものに対しては持ち歩くしかできません。
そして、持ち歩くとき、それをずっと考えているでしょうか。
意欲的に考えているとすれば、例えば計算をしているならば能動と表せますが、持ち歩く場合は能動とも受動とも言えない中動態に移ります。
頭の隅にモノを置いておく状態です。
イメージとしてはクイズを思い浮かべてみてください。
「帽子に隠れている動物はなに?」
「ねずみが通っている学校ってどんなところ?」
これらの問いに、すぐに答えがでなかったとします。
でも、この問いを頭の隅においたまま他の行動をしていると、その答えが思いつくことがあります。
何気なく牛乳を見たときに「牛だ!」と思いつく。
学校に行こうとして「中学校だ!」と思いついたりします。
この答えが得られるまでの過程を思惟と表します。
そして、「放下」は原発に言及していることなので、原発を頭の隅に置いた状況にしておくことになります。
このことを意識したまま、③の開く態度を見ていきましょう。
③開く態度とは
②秘密を知るために自分たちを開く必要がある、ということに関して中動態を見てきました。
その態度とは思惟している過程の態度であり、原発について頭の片隅においておく状態です。
「核技術が隠し持っている秘密=謎をきちんと受け取れるような状態にならねばならない」と本で述べられています。
では、どうしてこのような態度が必要になってくるのでしょうか。
これには、ハイデッガーが伝える「考えることを誘っている」ことに関わります。
1955年にハイデッガーの原発利用反対から、今では原発反対という人が増えたと述べました。
この増えた原因は何でしょうか。
一つには客観的データや、原子力は常に見張る必要があるという危惧が見られます。
しかし、これらのデータから私たちは詳細を論じることができるでしょうか。
何かデータ元をしっかりと勉強しなければ、論じることはできません。
なぜ反対しているかと言うと、意見の反対に同調しているだけという場合があるのです。
大勢に同調していくという全体主義が形成されます。
しかし、自分で考える態度を持っていれば、同調から全体主義にならないと考えられます。
歴史から見ても、ナチスに陥る思想として全体主義は批判されています。
なので、考える態度が必要になってきます。
ちなみに、この態度を持てば解決されるのかというと疑問が残ります。
ハイデッガーが陥った全体主義
自分で考えていくことができていたハイデッガーが、なぜナチスに入り全体主義に加担したのかも考察する必要があります。
集団だから同調したわけではないとすれば、なぜなのでしょうか。
一つの推測として、心理学でマイノリティ・インフルエンスという用語があります。
セルジュ・モスコヴィッシ(1925~2014)が唱え、少数派の意見が多数派に影響を及ぼすことを指します。
マイノリティ・インフルエンスも一人の影響力がみんなを信じさせるので、そこに一人一人が思惟した結果を含まない場合があります。
ここから言えることは「放下」することは、1955年に原発反対を主張したハイデッガーから学ぶべきものがあり、またさらに全体主義に染まらないためにはいつも思惟する必要があると捉えることができます。
「放下」は過程の態度であり、決断や意志することとは違います。
決断した後も、ずっとこの「放下」の態度が必要になってくることを示しているのではないでしょうか。
ここでは、深く立ち入りません。
なので、ハイデッガーがなぜ全体主義に加担したのか思惟してみて下さい。
次に「放下」を実践するための具体例を見ていきましょう。
「放下」を実践するための具体例
「放下」を実践するための具体例を述べていきます。
①身の周りのモノから「放下」する
ハイデッガーはプラトン以降の哲学者を批判していました。
なぜ批判したかというと、プラトンが形而上学を語りだしたからです。
形而上学とは、自然の原理を度外視して考える学問のことです。
自然の原理を度外視しているので、どこか天国のような場所にモノの実体があると考えます。
ハイデッガーはモノに直接触れることの大切さを説きました。
そのものを五官(目、耳、鼻、手、口)で感じることによって「放下」できると説いたのです。
例えば、私たちは体験を通してものごとを知ります。
見聞きするより、体感してみるとイメージと違っていたという場合が多々あります。
ハイデッガーの思想には「農夫の思想」があると本では述べられていました。
リアルな自然を大切にするという思想です。
五官で感じられるものです。
「目の前が見えていない人には哲学もできない。」
ハイデッガーが尊敬していた自然哲学者たちはみな実践家で、政治にも関係していました。
私たちはハイパーリアルな世界に住んでいるともいいますし、リアルなものを見る機会は減っています。
そのことの一因で、実際のモノを結び付けられないから、自分で考えられなくなると言えます。
この理論からすれば、思考感覚が影響しているとも言うことができます。

これがキュウリなんだね!

キュウリを育てるのも勉強だね。
実際にふれることで「放下」するのです。
そして、この実際にふれることに関してもハイデッガーはさらに考えます。
②本当に不気味なこと
本の一文を抜粋します。
しかし本当に不気味なことは、世界が一つの徹頭徹尾技術的な世界になるということではない。それより遥かに不気味なことは、人間がこのような世界の変動に対して少しも用意を整えていないということであり、我々が省察し思惟しつつ、この時代において本当に台頭してきている事態と、その事態に相応しい仕方で対決するに至るということを、未だに能く為し得ていないということである。
原子力時代における哲学の抜粋より「思惟とは何の謂いか」
ハイデッガーは考えなしに技術だけが先行してしまっていることを不気味に思っています。
そして、原子力時代においても人間の仕事や作品などの地盤が必要であることを説きます。
先にあったただ触れるものに着目するだけではなく、新しい基盤を探していくことも説いているのです。
その方法として「放下」では対話形式をとり、読者に自分で考えるとはどのようなことかを体験させようとしています。
難解な言い回しがでてくるのですが、自分で考えたと思うに至るにはいい方法かもしれません。

考えることを考えてみるね。

うん、ハイデッガーのメッセージだね。
「放下」まとめ
「放下(Gelassenheit)」とは、技術への対し方として、ハイデッガーが到達した概念です。
ハイデッガーは1955年、哲学者でただ一人、原子力の平和利用神話に反対していました。
①秘密を持っている。
②秘密を知るためには自分たちを開く必要がある。
③開く態度とは何か。
を見てきました。
この中で中動態の状態が大切だと述べました。
ハイデッガーは「考えることを誘っています」。
「放下」を実践する態度として。
①身の周りの五官で感じるモノから「放下」する。
②実際の社会から「放下」する。
この態度が必要だとのべ、実体験させる方法として著書『放下』では会話形式で読む人を考えさせようとしています。

哲学者はそれぞれの「考えることを考える」を持っているね。
コメント