「ある」を確信しているのはなぜか。エポケーしてみよう。

エポケー哲学

エポケーとは、当たり前に存在していると確信している物事を根本から捉えなおす手段です。(哲学用語図鑑 参照)

エドムント・フッサール(1859~1938)によって唱えられました。

デカルトの方法的懐疑を応用したものがエポケーです。

確信している物事を一度(カッコ)にいれて疑うことをいいます

私たちはどうして何かが存在していることを確信できるのでしょうか。

なぜ確信しているのかエポケーによってつきとめてみましょう。

エポケーとは

エポケーとは、私たちが確信している物事を疑うことを言います

実際にエポケーしてみましょう。

りんごをエポケーします。

りんごがある

まずこのことを確信して下さい。

りんごが当たり前に存在しているな、と。

存在しているというのがポイントです。

次に「ある」を疑います。

りんごが(ある)

確信している存在を疑うために、「ある」を(かっこ)にいれます。

そして、思い込みを消してりんごの存在を徹底的に疑ってみましょう。

①このりんごは幻影かもしれない。
②このりんごはみかんかもしれない。
③このりんごは作り物かもしれない。
④このりんごは絵かもしれない。

自分の先入観を疑います

私がりんごに対して受け取った感覚を言葉にしていくと、まだまだこの存在を疑う言葉がでてきます。

⑤このりんごはおいしそうにみえるけど、存在している?
⑥このりんごは赤色にみえるけれど、存在している?
⑦このりんごは丸くみえるけれど、存在している?

目の前のりんごは幻かもしれないけれど、私が感じた「おいしそう」「赤い」「丸い」といった感覚が意識にあることは確かだと感じます。

次に、この疑った意識を整頓していきます。

整頓に対して、2つに分けます。

①知覚直観
②本質直観

まず①知覚直観を見ていきます。

知覚直観とは、知覚的な感覚を言います

目、耳、鼻、舌、手触りから得るものが知覚直観です。

赤い、良い香り、かじるとサクッとなる、つるつるしているなどです。

次に②本質直観を見ていきます。

本質直観とは、知識から来る感覚を言います

りんごについて知っている経験的な直観のことです。

おいしそう、硬そう、みずみずしそう、などです。

この2つの直観によって、私たちは存在を確信しているとフッサールは説きました

私たちは自分の意識は疑いえません。

これは、「我思う、ゆえに我あり」で明らかになった自分の意識のことです。

この意識を基準に、物事をいったん疑う(エポケー)ことで、確信の根拠をつきとめていきます。

確信の根拠を解明するのが現象学です

エポケーは現象学に含まれます。

現象学を見ていくことで、エポケーを深めていきましょう。

エポケーしているね。

現象学とエポケー

まず現象学をみるにあたって、「我思う、ゆえに我あり」で明らかになったことを見ていきましょう。

フッサールのエポケーはデカルトの方法的懐疑を応用したものです。

このデカルト哲学の第一定理、「我」の存在の確定。

そこから、デカルトは認識するもの(主体)と認識されるもの(客体)を分けて考えました。

主体の意識を主観、客体の意識を客観といいます

しかし、問題があります。

私は私の主観の外から、私が見ているものを見ることができないのです。

これは自分の主観と客観が一致していることを証明できないことを表します。

例えば、あなたが今日は晴れていると思っても、その場で主観と客観が一致していると証明することはできません。

あなたからすれば、外に天気を見にいかなくてはいけないのですが、あなたが考えている晴れと実際の天気を一致させることは証明できないのです。

しかし、私たちは見ているものの実在を確信しています。

主観の中に浮かぶ世界を現実と一致させて確信しているのです。

この場合、私は晴れていると思う(主観)。
晴れている天気が実在している(客観)。
これを一致させて「今日は晴れている」と確信しています。

世界は私の主観の中だけでしか認識できないのに、私たちは自分の外にも世界が実在していることを当たり前のように確信しています。

なぜ確信出来ているのか?

その謎を解明するのが現象学です。

現象学では現象学的還元を用いて目の前のものをどうして確信しているのかを解明します。
そして、その方法がエポケーになります。

現象学=自分の外の実在を確信している謎を解明すること。
現象学的還元=主観と客観が一致していることを確信する根拠を解明すること。
エポケー=現象学的還元を行う方法。

現象学>現象学的還元>エポケー

ここで、現象学的還元を詳しく見ていきましょう。

現象学的還元とは

現象学的還元では、意識に現れるだけなのになぜ「存在」すると思うのかの根拠をつきとめます

文字通り、還元とは純粋なものをとりだすという意味です。

酸化銅や酸化鉄から純粋な銅や鉄をとりだすような作業です。

そして、客観的な世界を「実在」ではなく「現象」として考えています。

なぜかというと、実在を疑うことは放棄して、現象に焦点を当てているからです。

現に私が確信しているという現実を見ていきます。

デカルトが実在を疑った結果として「我思う、ゆえに我あり」がでてきました。

その結果を受けて、フッサールはその現象を見ていくことにしたのです。

現象学は私の意識に焦点を当てることで、実存主義に影響を与えました

自分が体験している身近な物事が哲学になったからです。

なので、現象学は21世紀の哲学でも再び取りだたされています。

浮世離れした科学主義ではなく、日常生活から物事の本質を見ていこうとしているからです。

現象学があり現象学的還元があって、その方法の一つとしてエポケーがあると考えます。

僕はどうしてこう思っているんだろう。

当たり前を疑うんだね。

では、具体例でエポケーを見ていきましょう。

エポケーの具体例

さきほどはりんごを例にとりましたが、エポケーはなんでも可能です。

科学、道徳、学問、政治、法律、宗教など、何にたいしてもエポケーができるのです。

例えば、美しさをみていきましょう。

美しさをエポケーしてみる

美しさが(ある)

私たちが美しさを感じるのはなぜでしょうか。

美しさは時代によっても変わっています。

昔の美人と今の美人で違う、流行のファッションは変わっている、などから時代によって美の基準は違っているからです。

しかし、私たちは美しさを共有できます。

誰かが美しいというと、それを共有できる場合があるのです。

それはなぜなのだろうかと、物事の根源を突き詰めていきます。

そして、どうしてその美しさを共有できるのかを説明する場合、フッサールは間主観性という用語を使いました。

間主観性とは

間主観性とは、私が他我の存在を確信することです。

「なぜ美しいがお互いに確信できているの?」という問いに、「間主観性があるからだよ」と言うことができます。

間主観性は、自我にとっての世界と他人にとっての世界は同じものだと確信させます。

フッサールは間主観性が確信を基礎づけると考えました

間主観性はそこに他者を必要とします。

自分一人の場合、意識を疑っていけばエポケーしたものがなかったという場合がありえます。

しかし、そこに他者も確信しているという事実があれば、そこに何かがあるということになります。

エポケーをすることで、新たな概念(間主観性)の発見がありました。

エポケーは日常生活に新しい発見や新しいものの見方を与えてくれます

他にも見ていきましょう。

エポケーからの新しい視点の獲得

例えば、このツイートからもエポケーを考えてみます。

さて、ここで「砂漠」「井戸」「美しい」の関連性は客観的にあるのでしょうか。

童話としてみんなに感動を与えている「星の王子さま」なのであるような気がします。

エポケーしてみましょう。

客観的に(ある)

この場合、客観を疑っていきます。

辞書には「砂漠」「井戸」「美しい」の関連性は載っていません。

でもどうしてみんなが直観的に関連性があると感じるのでしょうか。

ここにおいても「間主観性があるからだよ」と説明ができますが、さらにエポケーしてみます

この場合、客観がわからなくなりますね。

客観には筆者の主観が入っているような気がする。

私たちが客観的だと把握しているデータなども、製作者の主観が入り込んでいる気がします。

実は主観、客観の存在は疑いえることがわかります。

しかし、ここで注意して欲しいのは実在を問うことは現象学ではしません。

現象としては存在しているものとみなします

そうみなすためにも間主観性が役に立ちます。

エポケーって新しい考えを生み出すね。

間主観性をたくさん発見しそう。

エポケーのまとめ

エポケーとは、当たり前に存在していると確信している物事を根本から捉えなおす手段です

既存の知識や経験をいったん(カッコ)にいれて疑います。

エポケーは現象学的還元の一つの方法です。

これらは現象学で扱われています。

現象学は自分の意識の謎を解明しています。

現象学>現象学的還元>エポケー

エポケーをするときに、私たちは世界を確信している現象を前提にしています

なので、エポケーによって対象があるのかないのかわからなくなったとき、間主観性によって世界の存在は基礎づけられているのだと説明ができます。

間主観性は他我があることの確信です。

エポケーできるかな?

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