今をときめくマルクス・ガブリエルの著書では、主体の大切さを説いています。
私が感じる世界。
>>意味の場とは
自分が決める自由意志。
>>自由意志のパラドックスはこちら。
主体からみる本当のことを、キルケゴールは「主体的真理」と呼びました。
キルケゴールの「主体的真理」が、21世紀の精神哲学で見直される理由を、例とともに紹介していきます。
主体的真理とは
キルケゴールが唱えた主体的真理を客観的真理との対比から見ていきます。
主体的真理とは、私にとって真理であるような真理です。(哲学用語図鑑 参照)
これを、客観的真理と対比させます。
客観的真理は、一般的に考えられている真理です。
みんなが納得する普遍的な真理を言います。
⇔
客観的真理=一般的に考えられている真理
では、具体的にみていきます。

わぁ、100人規模のパーティーに招待された!

盛大だね!
これが客観的真理になります。
一般的にパーティーはきらびやかなイメージが先行します。
「あれも、これも」取り込んで、みんなが納得するパーティーを真理とします。

参加したけど、友達が一人もいない。
つまらない。

私は食べ物がおいしくて楽しかった!
これが主体的真理になります。
それぞれが違う見解で、それぞれにとって真理があります。
「あれか、これか」を選択する、私にとっての真理です。
「あれも、これも」と「あれか、これか」の違い
「あれも、これも」はヘーゲルが普遍的な真理を導き出すことに使った手法です。
ヘーゲル(1770~1831)は近代哲学の完成者と言われています。
文字どおり、あれもこれも議論して取りいれて、一般的な真理にします。
それに対して、「あれか、これか」はキルケゴールの主体的真理です。
キルケゴール(1813~1855)は実存哲学の祖と言われています。
いろいろな物事を取り込むのではなく、私にとっては「つまらない」「良い」といったあれかこれかといった主体的な真理があります。
では、主体的真理をマルクス・ガブリエルの見解からみていきます。
主体的真理をマルクス・ガブリエルの見解からみる
主体的真理を「マルクス・ガブリエル 欲望の時代を哲学するⅡ」から読み取ります。
文章を引用します。
「完璧なパーティーなどないことは、みなさん、ご存知ですね。
あなたがそこに行くのは、社会的な状況を楽しみたいと思うからですが、いつも何かがおかしいのです。
あなたが期待していたものとは必ずしも一致しないものがつねに存在します。
それは、あなたが自分に対して抱いてほしいと思っているイメージに合わないイメージを抱く人が、その場にいる、という事実です。
私たちは一方では他者からある視点でみられることを望みながら、その一方で、それがゆえに他者が自分に対して究極の力を持っているという事実を忌避しているのです。」
先ほどの主体的真理を説明するのと同様に、パーティーについての例がでてきました。
ここでは、パーティーを楽しみに出かけていくのですが、実際は違いました。
友だちがいなかったり、いたとしてもその中でイメージとの違いを感じます。
一般的なパーティーのイメージや、他者が抱くイメージとの差が自分を攻撃します。
マルクス・ガブリエルがこの例で言おうとしたことは、人間の自由は絶えず自らを攻撃すると言うことです。
ここでの自由は自由意志と言い換えても通じます。
「自由意志とは、自分の行動が他人にもたらす影響に照らして自分自身を考えられる能力であり、その行動がとれる能力のことです。」
客観的真理からその行動をとろうとするのですが、イメージとの差がでてしまいます。
他者が一人一人のイメージを持つので、それを実行することが難しくなるからです。
現代で主流の構造主義も複雑性を手伝います。
私たちは人間が好きなので良いイメージをパーティーに持つのですが、同時に人が私たちに抱くイメージを楽しむことができません。
そして、社会は複雑性を増しているので、何が正解なのかわからない点も人を苦しめます。
具体的に見ていきます。

私はこのドレス素敵だと思う!

このパーティーには似合わないって思う人もいるね。

このドレス褒められたんだ!
でも、それも皮肉かもしれない。
真理が相対化している場合だと、よけいに複雑性は増します。
普遍的な客観的真理があふれる世の中において、キルケゴールは例外者として存在することが、本当の価値だと考えました。
キルケゴールの例外者
みんながみんな楽しめないとなれば、普遍的な価値に含まれない例外者として存在することを選びたくなります。
自分だけの価値を守る、すなわち、主体的真理を守ろうとするのが例外者です。
キルケゴールはこの例外者として存在することこそ、本当の価値だと考えました。
例外者として生きるということは、大衆の考えに埋没することがなくなります。
現代自己啓発書においても、これからの時代は何か突出した得意なものがあると生きやすくなると言われています。
例えば、こちらの本です。
人に教えるには、複雑になっていることを単純にして相手に腹落ちしてもらうことが重要だと説いています。
「現代の本を読んでわからないのは、書き手がアホだから」という言葉には、ドキッとさせられます。
例外者として存在すれば、複雑なイメージを抱かなくてよくなります。
ただ、知識と理解は教えるにあたって、この場合も必要になってきます。
そして、題名の尖った人とは何かに突出している人のことです。
大衆に埋没はしていません。
ガブリエル・マルクスは自分の使命を自分自身で実感しています。
自分の感覚を磨くことで、それが生きる意味、ということがわかると言います。
主体的真理を持つ、例外者のようですね。
>>実存主義についてはこちら
では、次にこの客観的真理がもたらす悲劇を物語で紹介していきます
主体的真理を持たないアビリーンのパラドックス
アビリーンのパラドックスとは、ある集団が行動をするのに対して、その個々人の嗜好とは異なる決定がされてしまうことです。
具体的に見ていきます。
アビリーンとはアメリカのある町の地名です。

みんなー!アビリーンに旅行に行くよー!

わかった(本当は家にいたい。)

楽しそうだね。(本当は他の予定があったのに)

よし、行こう!(娘のためだ)

提案者に対して、みんな賛成してるね!

(えっ、みんな賛成なのか。)
じゃあ、アビリーンに行くよー!!

おやっ、みんなの心の声が聞こえてきた。
みんな行きたくなかったんだね。
みんなが賛成していたので、アビリーンに向かうことになりました。
けれども、実は提案者でさえアビリーンに行きたくなかったというパラドックスです。
さきほどの客観的真理に当てはめると、みんなのイメージとしてはアビリーンに行くことが一般的に正しいと言うことになります。
主体的真理では、個々人はみんな行くのを嫌がっていました。
結局はみんなでアビリーンへ行ったのですが、本当は誰も行きたくなかったのです。
このアビリーンのパラドックスはたびたび集団思考のひとつの形としてあげられます。
社会的な要因が個人の欲求を抑えてしまい、その結果も望ましくないものになります。
大衆主義や全体主義の批判としても取り上げられています。
主体的真理のまとめ
キルケゴールは主体的真理を、私にとって真理であるような真理と言いました。
これと対比する客観的真理は、一般的に考えられている真理です。
「あれも、これも」と取り込んでみんなが納得する普遍的な考えを客観的真理。
「あれか、これか」と選択して自分にとっての真理を信じる考え方が主体的真理です。
パーティーの感じ方を例に、ガブリエル・マルクスから読み取る主体的真理。
アビリーンのパラドックスから、主体的真理の必要性を述べました。
主体的真理を持つ例外者は、現代でも一目置かれる存在となっています。

あれか、これか自分で選択したいな!
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