生の権力とは、ミシェル・フーコー(1926~1984)が説いた考え方です。
フーコーは1984年に亡くなったのですが、生の権力の思想は未完だったそうです。
しかし、フーコーの思想は再び取りだたされてきています。
監視社会と言われている今の時代にぴったりと当てはまってくるからです。
当時は時代の先を行きすぎていた思想に、私たちはようやく追いつきました。
この時代を考察するためにも、フーコーの生の権力を考えてみましょう。

そんなに時代を先取りしていた人だなんて、気になる!
参考VTR石田英敬×東浩紀「フーコーで読むコロナ危機」
参考文献「哲学用語図鑑」(田中正人著)「原子力時代における哲学」(國分功一朗著 2019)
生の権力とは
まずは歴史から見ていきます。
その当時の時代背景からでしか、概念を読み取ることができないと私には思われるからです。
フーコーはその時代にあった知の枠組み(エピステーメー)があると説いているので、時代によって捉えられる考え方は違うと言います。
例えば、今の流行語が来年には通じなかったり、流行遅れと思われることです。

ぴえん。

ぱおん。今は流行っているかな。
なので、18世紀以前の権力との対比として、生の権力を見ていきます。
18世紀以前・生殺与奪権からの支配
18世紀以前、私たちは生き物を見た目で区別していました。
同じように見える昆虫をひとまとめにしたり、スイカやイチゴを見た目で果物としていたりしました。
フーコーに言わせれば、18世紀以前には「人間」という概念はなかったのです。
学問的な定義ではない人びとがそこにはいました。
全体として定義しようとしてもデータや数字がなかったのです。
定義ができない民衆を国家がどう扱ったのかというと、絶対的な権力から死の恐怖による支配です。
生殺与奪の権から、民衆を従えました。
(ホッブズのリヴァイアサンの考え方はこちら。)
民衆はどのようなものかわからないので、死による支配をしたのです。

恐ろしい海獣!

怖いものには弱いな。
そして19世紀以降、科学技術や各学問の発達によって「人間」という考え方が生まれました。
次に19世紀以降を見ていきます。
19世紀以降・「生かす」権力へ
19世紀以降は「生かす」権力へ移ったと言われています。
まずは民主国家に移っていくときの「人間」を見ていきましょう。
19世紀の「人間」とは
科学技術や各学問が進み、「人間」というものが分析されだしました。
例えば、主に文化人類学。
この分野から「人間」が構造によって縛られていることがわかってきました。(構造主義)
人間は社会の構造の中で、そこに染まって生きるという考え方です。
他にも例えば、心理学。
私たちは権威に弱かったり、損をすることが嫌だったり、無意識に行動を支配されていることがわかってきています。
本人が何か行動をする際に、無意識に良いことがあったとします。
そのことが繰り返されていくと、本人は無意識にその行為を繰り返す行動が増えているといった心理分析学の実験結果があります。
このようなデータから「人間」の行動を科学的に分析でき、その傾向がわかってきたのです。
そして、その分析した結果、どうやら学問をする以前に漠然と捉えていた「主体的な人間像」を再び作りなおす必要があると考えられるようになりました。
(VTRでは「人間」⇨ポピュラシオン(人口)という概念になるのではないかとあります。)
「主体的な人間像」のイメージから主体性に対する疑問が持ち上がり、そのような「人間」はいないのではないかと考えられてきたのです。

「人間」は波打ち際の砂で描いた絵みたい。

さっと描いて、さっと消えちゃうイメージだね。
このように移りゆく「人間」の概念の中で、「生かす」権力にいる私たちを見ていきます。
「生かす」権力とは
19世紀以降、科学技術の発展と共に民主主義が進んでいきます。
かつての絶対王政から民主国家に移り変わりました。
これで生殺与奪の権からは逃れて平和になったかに見えました。
しかし、フーコーは民主国家をパノプティコンという監獄にたとえました。
私たちは無意識のまま監獄にいるというのです。
そこで受けている影響から、パノプティコン効果が定義されます。
パノプティコン効果とは、つねに監視されているという意識から、みずから進んで規律に従うようになることです。
そして民主主義が作り上げた権力を生の権力と呼びました。
特徴を上げます。
・目に見えない権力。
・私たちを資本主義に適合させるように監視。
・私たちは監視者でもあるし、監視される者にもなる。
例えば、学校の教室では常にみんなの目にさらされている状態や、監視カメラが町中に溢れている状態。
他にも、心理的にも身体的にも社会に従順させられている状態。
列に並んだり、会社のラジオ体操をさせられているような状態です。

僕も当たり前に並んでた!

そんな無意識の積み重ねだね。
これらパノプティコンからの発生は規律権力と呼ばれています。
監視社会といわれる現代を表すのに当てはまる言葉です。
また生の権利には、種としての人間を対象とするテクノロジーがあります。
統計学的に人間を管理して人口に働きかけたり、バイオテクノロジーにより生をコントロールします。
①パノプティコンなどによる規律権力
②種としての人間を「人口」から支配する権力
②は、病気の本人に死を選ばせることがなく、延命治療にあたるような行為。
遺伝子で見れば1973年まで同性愛を精神障害として扱っていたような行為です。

フーコーは同性愛者としても苦しんでいたんだね。

それで当時の遺伝学からの支配を強く感じたのかな。
生かす権力まとめ
「死なしめるか、生かしたままにする」
⇩
19世紀以降・生の権力
「生かせるか、死の中に放置する」
生の権力の発生を歴史により見ていきました。
そして次に生の権力とはどのようなものかも見てきました。
①規律権力からの支配
②人口としての人間を種から支配
生の権力は私たちを気がつかないうちに抑えつけています。
このことにおいて、私たちから主体性を奪います。
主体性が奪われるという見解は、①の規律権力としての生の権力から見ていくことができます。
次の章で具体的に追っていきます。
生の権力と中動態との関係
生の権力は意識しないと現れてこない権力です。
なぜかと言えば、私たちは普段、監獄にいるとは思っていないからです。
しかし、フーコーは民主国家をパノプティコンに例えました。
民主国家にいる私たちは監獄にいるのです。
では、監獄にいるとどのようなことが起こるのかを想像してみて下さい。
まずあなたは能動的に率先して「列に並ぼう!」と思ったとします。
この場合、ほんとに能動的でしょうか?
中動態という概念を復習してから、それを判断してみます。
中動態とは
中動態とは、能動とも受動とも受け取れない態度です。
例えば、
イヤイヤやる。
何気なくやる。
私が私を殴る。
私が私をどう思っているのか感じる。
といったことが中動態にあたります。
古代ギリシャ語には中動態がよく残っています。
そして、その当時、意思という概念はありませんでした。
このような分類をすると、中動態は2つに分けられます。
1つ目は能動、受動、中動態として分けられる態度です。
イヤイヤやることにたいしては、能動でも受動にも当てはまらないので中動態と名づけました。
これは、何気なくやるという態度も一緒です。
能動的でも受動的でもないから、中動態に当てはまります。
そして2つ目は、過程としての中動態です。
初めに何かやろうとして、そのことは能動的でもあり、受動的でもあったかもしれません。
けれど、そのことについて動作が主語から主語に向かう行為も中動態と表されます。
能動⇨中動態にうつる。
受動⇨中動態にうつる。
例で言えば、私が私を殴る行為はわたしの中で完結しています。
何か私が私を殴ろうとした衝撃は受けていますが、行為としては主語に向けられています。
他で言えば、私が考えている状態もそれにあたります。
私が私のことにたいして向かっているからです。
これは行動と行動の間の過程であるとも表されます
①能動、受動、中動態として分けられる態度
②主語から主語に向かう過程の態度
なぜ分けたのかと言うと、私はこの2つを分けることで主体性を見ていきたいからです。

勉強したくないけど、しょうがないからやる。

この態度は中動態①!

この問いは難しい。うーん、悩むな。

この態度は中動態②!
では、この中動態という言葉を使って、フーコーの生の権力を再びみていきましょう。
生の権力に対して中動態で見ていく
さて、初めの問いに戻ります。
あなたは監獄の中で率先して列に並ぼうとしました。
この行為は能動でしょうか?
監獄という背景を見ずに「列に並ぶ」という行為だけをしようとしていれば能動かもしれません。
しかし、あなたは監獄にいます。
監獄では周りの目があなたを見ていて、あなたに模範的な態度を求めてきます。
もし無意識にその目を気にしていたとしたら?
その場合、「列に並ぶ」という態度は中動態になります。
自分から率先して能動的に並んでいるわけでも、受動的にならんでいるわけでもないからです。
中動態の特徴の一つに、意思が関係しない言語だということを述べました。
その結果、パノプティコンの中で行動すると、主体性をもたずに生の権力に支配されていることがわかるのです。
しかし、ここで疑問が浮かびます。
意思がないことは主体性がないことにつながるのでしょうか?
この中動態の中に主体性を見出すことができないだろうかと言う視点です。
そのことを見ていく為に、実存主義の始まりと、自由意志の観点から見ていきましょう。
生の権力と中動態の具体例
生の権力に支配されていると、主体性はなくなってしまうのでしょうか。
ここでは主に、規律権力としての生の権力を話していきます。
民主国家のパノプティコン(監獄)にいる私たちには主体性がないのでしょうか。
しかし、そうとも言い切れないことが実存主義や自由意志からみることができます。
主体的だとされるのは実存主義ですね。
まずは実存主義と中動態との関係を見ていきます。
実存主義と中動態
実存哲学の祖はキルケゴール(1813~1855)だと言われています。
キルケゴールは「あれか、これか」を選択して自分にとっての真理を選択するあり方に主体性を見出しました。
この選択するというあり方は能動的であり、中動態ではありません。
しかし、もっと前時代をさかのぼると、実存哲学の先駆者はパスカル(1623~1662)なのではないかと言われています。
それは「考える葦」から、人間存在の特異なあり方を説いたからです。
人は宇宙からみれば葦のようなちっぽけな存在だけれど、世界を考えられる存在だと説くことが実存哲学の先駆者だと言われています。
もしあり方から主体性をみられるとしたら、中動態においても主体性を見ることができます。
考えている私(中動態の状態)に主体性を見ていくことができるからです。

僕はホモサピエンス!

考えるヒトという意味だね。
ただ、現代人は考えることが少なくなってきたともいわれています。
その意味では生の権力に支配されているかもしれません。
中動態に主体性を見る見方は、マルクス・ガブリエルが説く自由意志のあり方にも見ることができます。
自由意志があるとみなすマルクス・ガブリエルの考え方を追ってきます。
自由意志と中動態
自由意志があるのかないのか、という議論は哲学においてよく話されています。
ショーペンハウアーが最初に、人間には自由意志がない、ということを述べました。
「欲望は満たすことはできるが、欲することはできない」
この一文に表されます。
詳しくは
>>自由意志のパラドックス
しかし、マルクス・ガブリエルはそれに対して否定します。
選択が見える場面において、自由意志はないように感じるかもしれない。
けれど、私たちは無意識的に無数の選択をその中でしていて、その選択は自由意志に由来すると説くのです。
例えば、あなたが列に並ぼうと行動を起こします。
すると、監視社会にいるので、それは中動態だと指摘されるでしょう。
あなたの自由意志で選択しているのではないと、言われてしまうのです。
しかし、あなたは列に並ぼうとするときに多くの知覚をしています。
「並んで」という声をきいたのかもしれません。
ルールを思い出したのかもしれません。
足がその場に歩いて行くように動作を意識したのかもしれません。
これらは無数に上げることができます。
その中の一つの動作に対して私は意識しました。
「列に並んだ」ということです。
言葉にしたものに対しては中動態だということができますが、無数の中の一つを言葉にしたにすぎないのです。
それを意識して言うことにも、選択肢があるからです。
私はこの無数の動作に対しても、一つの選択をしていると言うことができます。

お手伝いして偉いでしょ!

言わない方がいいという考え方もあるんだよ。
言ったということに関して、褒めてもらいたいとか自己満足だとかを見つけ出されてしまう場合があるのです。
ここでもう一度中動態の区分けを見ていきます。
①能動、受動、中動態として分けられる態度
②主語から主語に向かう過程の態度
実はこの①の態度は、意識したときにしか区別されません。
判断する時に〇と✖のように選択肢が少なく、言葉によってそれは自由意志がないということができてしまうのです。
ちなみに、サンスクリット語には中動態のみしか存在しない動詞も多いそうです。
「考える」という動詞はそれにあたるといいます。
このような態度において主体性を見ていくのなら、中動態においても主体性が見てとれます。
②の中動態としての過程の状態に自由意志をみるからです。
考えている私というのはパスカルからの実存哲学で言えば主体的になります。
自由意志とは自分自身のイメージに照らして行動する能力のことであると、マルクス・ガブリエルは定義します。
自分自身のイメージに自分で行動していくことは中動態です。
自分のありたいイメージを想像していく態度を必要とします。
生の権力と中動態のまとめ
生の権力はフーコーが説きました。
①パノプティコン(監獄)からみる規律権力
②種としての人間を「人口」(ポピュラシオン)から支配する権力
そして、監獄にいる私たちは率先して何かをしようとしても、能動的ではなく中動態だと述べました。
ブログでは①の規律権力としての生の権力から、主体性を見ていきました。
中動態には意志が言葉として存在していません。
しかし、この中動態の態度そのものに主体的な自由意志を見つけていきました。
生の権力に支配されている場合、中動態としての過程がなくなっている場合があります。

現代社会において中動態ってキーワードになるね。
参考VTR石田英敬×東浩紀「フーコーで読むコロナ危機」
参考文献「哲学用語図鑑」(田中正人著)、「原子力時代における哲学」(國分功一朗著 2019)
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