自己愛とノーカリキュレーションの考察

自己愛雑談哲学

これは、道徳から愛を考えてみようという試みです。

愛には多くの面があります。

代表される2つの面には道徳的な面と、恋愛的な面があります。

道徳的な愛とは、「広く、人間や生物への思いやり。」

恋愛的な愛とは、「(男女間の)相手を慕う情。恋。」(広辞苑 参照)

感情においてはこの違いが混同しがちであり、愛という一言にたくさんの定義が存在しています。

では、心にある感情が浮かんだとして、それは愛だとなぜわかるのでしょうか。

定義の中からそれを探し出し、愛がそこにあると言えるのでしょうか。

自己愛ノーカリキュレーション(計算のないとっさの行動)から、愛をみていきます。

私たちは愛をどのように感じるのか。

これは愛を知ることの第一歩になります。

まずは道徳的な愛について見ていきます。

愛を勉強するんだね。

当たり前なことこそ、わからなくなるからね。

西洋哲学と東洋哲学の主な違い

道徳を基礎づける」から、西洋哲学と東洋哲学の主な見方を区切ります。(続哲学用語事典参照)

西洋は個人主義的

これはデカルトから始まる「私」を中心とする哲学が伝えられてきたからです。

デカルト(1596~1650)は近代哲学の父と呼ばれています。

私の意識を土台とする哲学です。

ここから、主観・客観という概念がうまれてきます。

私と他者を分けているのです。

一方、東洋は私と他者をしっかりとは分けません

日本に「哲学」という概念が導入され、最初の哲学者と言われたのは西田幾太郎です。

西田幾太郎(1870~1945)は和辻哲郎(1889~1960)に影響を与えました。

和辻哲郎は人間とは単独では成立できず、人と人との関係でのみ人間と成りうる間柄的存在だと考えます。

個人は社会がないと成立しないし、社会は個人がないと成立しないという関係です。

つまり、私と他者を分けない見方が前提となります。

2つの見方を図にします。

西洋的=私と他者を分ける見方
東洋的=私と他者を分けない見方

西洋的な見方をしていくと自己愛に陥ることが多々あります。

それによって、愛がわからなくなってしまうのです。

なぜではなく、自己愛になってしまうのか。

その過程を詳しく見ていきます。

えっ、見方の違いで愛がなくなるの!?

当たり前を疑ったら、なくなることもあるんだよ。

西洋哲学で陥りがちな自己愛

まずは西洋哲学の解釈からショーペンハウアー(1788~1860)を見ていきましょう。

彼は道徳的な行動をした後に思考すると、それはすべて利己的な行動にしたてあげられると示しました。

例えば、井戸に落ちそうになった子どもをとっさに助けた。

通常ならそれが道徳だと言われそうなのですが、思考することで道徳ではなくなるのです。

私がその場面でそうしなければ、後から非難を受けただろうという利己的な部分を指摘します。

親は子を保護する義務があり、これを破ると社会的に不利になるという考え方です。

これを裏づけるような心理学もあります。

ラタネ(1937~)が提唱した「傍観者効果」です。(心理学用語大全参考)

傍観者効果

この効果はある事件がきっかけで判明しました。

1964年、ニューヨークの住宅街でキティ・ジェノヴィーズという女性が殺されてしまいました。

住宅街で起こった事件なので、傍観者はたくさんいたそうです。

もし、みんなが道徳心を持っていたとしたら、殺されそうな彼女の元へ駆けつけたでしょう。

ところが、誰一人として助けに向かわなかったのです。

ラタネは傍観者が助けなかった主な理由を3つ考察しました。

①自分の援助行動が失敗した場合を考えて助けなかった。

②誰も助けていないので、大ごとではないと考えて助けなかった。

③周りに多くの人がいるので個人の責任ではないと考えて助けなかった。

このような思考によって、人々はキティを助けに行かなかったと理論づけたのです。

これはショーペンハウアーの道徳観を後押しします。

ショーペンハウアーは行動を起こした後で、その嫌な面を考察することで道徳ではなくなると言うのですが、傍観者効果では助けに行くまでに思考をする時間がありました。

遠くで人が困っている様子に対して、思考が働くことでも道徳が実行されなくなるのです。

人々の思考によって道徳が道徳ではなくなる

道徳を実行したとしても、道徳を実行する前だとしても、思考によって道徳は道徳的な面を失います。

このように述べたショーペンハウアーはルソーを引き継いだと言われています。

ルソー(1712~1778)の道徳観を見ていきます。

ルソーの自己愛

ルソーは道徳における最初の現象は「憐れみ」だと言いました。

ルソーにおける憐れみとは「苦しんでいる人の立場に身を置く」ことです。

私たちは想像によって、他人の不幸を自分のこととして感じるのです。

ところが、このように定義すると憐れみは利己主義になってしまうのです。

憐れみにおいて、私が「自分に似た人と自分を同一視し」、「いわば自分をその人の中に感じる」としても、それは実際には「自分が苦しまないためにこそ、その人に苦しんでほしくない」のだ。別の言い方をすれば、「わたしがその人に関心を抱いている」としても、それは単に「自己愛のため」である

道徳を基礎づける」p61フランソワ・ジュリアン 中島隆博、志野好伸 訳

ルソーは自己愛に陥っていました。

どのように憐れみから道徳を考えたとしても、自分に結びつけて考えてしまい、それが自己愛になってしまったのです。

ルソーは他者を自分との関係によってしか、記述できませんでした。

そして、それは自己愛になってしまうことで愛にならなかったのです。

例えば、私はこの人を好きだ、と自分の中で思ったとします。

その場合に、私がこの人を好きなのは、自分に似たところがあるからだと思ってしまうのです。

すると、もうその人を好きなのか、自分が好きなのかがわからなくなってしまいます。

自分と他人を同一視する。

そして、一度これに陥ると堂々めぐりをします。

愛が自己愛になってしまうのです。

では、この自己愛に陥らないためにはどうしたらいいのか。

ここでは「私と他者を分ける見方」をしてきました。

次に東洋哲学から「私と他者を分けない見方」を見ていきます。

僕はとっさの行動をできるかな?

想像ではわからないんだよね。

東洋哲学から見るノーカリキュレーション

「私と他者を分けない見方」を見ていきましょう。

日本人に身近な仏教の見方によく現れています。

日本に古くからある仏教の主な人物、親鸞(1173~1263)の考え方で言えば私はになります。

個人が器のように受動的になるのです。

好きが私にやってくるものになり、私が受け身の器になります。

そこでは個人というものがなくなってくる。

中身と器があってこその本体というイメージです。

モノを入れるための器としたときに、中身がなければ器は機能しません。

そして逆に、受け止める器がなければ中身は流れていってしまいます。

私(器)と他者(中身)があって成り立ちます。

そして、東洋的な道徳の捉え方はノーカリキュレーション(計算のないとっさの行動)です。

井戸に落ちそうな子供をとっさに助ける。

その行動自体が道徳になります。

これを思考して道徳にすれば西洋的な道徳になってしまうのですが、その行為そのものを道徳だと捉えます。

西洋的:行為を思慮⇨道徳が疑いえる
東洋的:行為がある=道徳そのもの

これが道徳かどうかと疑うことはなく、道徳が存在しているとして扱うのです。

考え方としては現象学的であり、道徳がそこに存在していることが前提となります。

先ほどは考察すると道徳ではなくなることを述べましたが、ここでは考察を通してでてくる不可解なことに言及していきます。

考察で出てくる矛盾点

人は考察をしますが、考察とは違った感情があります。

私が考えたことが感情だとすると、感情を制限してしまうことになるのです。

例えば、井戸に落ちそうな子供を助けることを考えてみます。

憐れみで考えれば、自分が井戸に落ちそうになったとき助けて欲しいと思うから助ける、となります。

他者を私に例えてでた答えしか、私は採用しなくなってしまうのです。

しかし、利己的という理由で考えたとき、矛盾する点がでてきます。

それは、助けることで自分が死んでしまうかもしれない。

このような自分の利益と反する点です。

自分に不利益がたくさんでてくる。

これが利己的だと考えたときに、論理的に矛盾してしまうのです。

①考察することで道徳でなくなる

②考察したとしても、利己的と矛盾する部分がでてくる

この部分からも、他者と私を分けることで他人に対する道徳が見えにくくなるのです。

東洋の道徳では自然にでてきた計算のない行動といったノーカリキュレーション自体を見ていきます。

道徳がそこに存在していることが前提

直観的にそれは道徳だという前提から、道徳の具体例を見ていくのです。

では、具体例を元に考察していきます。

君の心の器はペットボトルのキャップ!

その心は怒りやすい、かな。

ノーカリキュレーションの例

例えば、ノーカリキュレーションを感じようとして、小説を読んだり、歌を聞いたり、映画を見たりしたとします。

計算のないとっさの行動を起こそうとして、何か私の心に響くような何かをしようと試みることです。

しかし、ここで注意が必要になってきます。

ノーカリキュレーションが何かを分析しようとして、考えてしまうということです。

考えてしまうことで、また自己愛に陥る場合があります。

小説でこんな人物がいるなら、次に喧嘩やトラブルになったときにこれを参考にしようというような見方では、道徳を見ていないことになります。

これは自己愛を通しての他の自己啓発になってしまうのです。

とっさに沸き上がったもの、とっさに行動したものを受け入れます

強く言うならば、分析はいらなくなります。

この音楽を聴いて震えた、この場面を見て涙した。

その事実だけを覚えておけばいい。

そうすれば、自分はこういう人なのだ、ノーカリキュレーションではこんな行動を起こす人だと、知ることができます。

なんでも論理的に考えてしまう人は、お酒に一度頼るというのもいいのかもしれません。

お酒で論理的思考を阻害します。

ただ私はこんな行動をとった。

さらにいうならば、その記憶も外部にたよってもいいかもしれません。

酔った行動を録画したり、録音しておいたりして、私を知るということです。

東洋的にいえば、その行動が私の道徳を現します。

そして、ここで初めに戻って愛という感情をみていきます。

愛をみるノーカリキュレーションの例

自分の愛を知るために、その対象を目の前にしてみます。

例えば、母親の場合で言えば、自分の子どもを抱きしめます。

もし、子どもがいなくなったら、と思いながら抱きしめてみればいいのです。

そのときに涙がながれてきた。

そのときにその手を掴んで離したくなくなった。

それを示す行動をしたとすると、子どもを好きだということがわかります

もし、これを自己分析という自分のフィルターにかけていくと自己愛になってしまいます。

なので、そこでは考えずにただわかればいいのです。

私はあえて、好きと言うことがわかると述べました。

感情がわかるわけではなくて、好きと言うことがわかると。

何か私が行動を起こすような何かが私にとってわかる、ということです。

この例で言えば、母親は直観的に「好き」ということをただわかったとしか言えない。

感情まではいかない、「好きと言うこと」がわかるのがノーカリキュレーションにおける知り方です。

なので、私は冒頭で愛を知る第一歩と表現しました。

まだここにはさらなる問いがたくさん隠れています。

好きなことは感情とイコールにならないのかな。

感情も考えていきたいね。

自己愛とノーカリキュレーションまとめ

大まかに西洋と東洋の見方を分けました。

西洋的=私と他者を分ける見方
東洋的=私と他者を分けない見方

私と他者を分ける見方をすると自己愛に陥りがちです。

そこから、自己愛を避けるには東洋的な見方をする。

ノーカリキュレーションの中に愛の第一歩をみつけていく

ということを考察してきました。

ただし、問いは残ります。

ノーカリキュレーションはどこから出てきたのか。

道徳的な愛と恋愛的な愛との違い、感情とはなど、多くの問いが残ります。

ここから愛を知る第一歩として、他の面からも愛を考察していく予定です。

一歩一歩進んでいくよ。

ラジオで話した回はこちら。

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