デカルト「我思う、ゆえに我あり」はどう否定する?

我思う、ゆえに我あり哲学

デカルトの
「我思う、ゆえに我あり」
この言葉を耳にしたことはありませんか?

思わず納得してしまう言葉です。
しかし、哲学とは否定が付きまとっていると私は以前述べました。

詳しくはこちら↓

>>哲学を面白く子どもに伝えるためには


この誰もが納得してしまう言葉を検証し、それに対する否定も見ていきます。

デカルト「我思う、ゆえに我あり」とは

デカルト
デカルト

同じことがらについては真理は一つしかありえない!

なのに、学者たちによって主張されている違った意見はいくらでもある。
私は、真らしく見えるだけのものは偽とみなすことにした。


このすべてを疑ったデカルトがたどり着いた「真理」が
「我思う、ゆえに我あり」です。


ありとあらゆることを疑ってみたけれど、この疑っている私の意識は否定できないと発見しました。

デカルト
デカルト

この発見で、人は神から自由になったぞ!


この時点では、人は神から完全に自由になったように思われます。
これがデカルトが「近代哲学の祖」と言われる所以です。
哲学と宗教全史 出口治明 2019)

自分を疑う・・・デカルトはどんなことを疑ったのかな?

感覚を疑う

感覚を2つに分けました。

外部感覚

デカルトは様々な外部感覚を疑いました。
例えば、人間の目の見え方と、動物の目の見え方が違うように、私がみているものは錯覚かもしれないと疑いました。

私、こびとが見える!!

私には、ママがこれやってもいいって聞こえた!!


本当に見えたり、聞き間違えたのかもしれません。
五感から得るものをデカルトは疑います。

内部感覚

高校生
高校生

お腹空いたなぁ・・・。

ううん、空いてない!ダイエットしなきゃ!

断食をしていると、空腹感がなくなることもあります。
怖さを恋愛のドキドキと勘違いしたり、嬉しいのか悲しいのかわからないときもあります。
このような内部感覚もデカルトは疑いました。

このようにして感覚を否定します。

生得観念は疑えない

「われ思う、ゆえに我あり」の中には、感覚は入っていません。

じゃあ、「われ思う」の何を真理としたの?

心と体を分けて考え、その精神や意識といった理性を真理としました。
デカルトは人間が生まれつきもっているものに着目します。

デカルト
デカルト

ここに3本の鉛筆がある。ここに1杯のコーヒーがある。
私は3そのものや1そのものを見たわけではないけれど、数字を使いこなせている。


ここでデカルトはさらに疑問に思います。

デカルト
デカルト

なぜ私は3や1を知っているんだろう。

私はよりよいものや、よりよい美しいもの、完全なものを求めている。
どうして私はそれを求めているんだろう。

ここで、デカルトは一度は切り離した神に答えを求めます。

デカルト
デカルト

そうだ!

完全を知っている神が3や1を教えてくれたんだ!

人間が不完全なのに完全を求めるのは、神が教えてくれたからなんだ!


人間は世界の事象を疑ってみても、結局のところなにもわからない「不完全な存在」だと考えました。
この意識の内容は、生まれつき持っているから「神によって与えられた」のだろう。
神に与えられたものは疑うことができない。

このように「我思う、ゆえに我あり」では改めて神の存在を証明することになりました。
「神」が出てくることで、「神」に対する疑問がでてくるかもしれません。

神様って善なのかな?
自分では疑っているつもりでも、それが悪い神様に騙されてて、答えも不完全かもしれないよ。

デカルト
デカルト

騙すという行為は、騙す者と騙される者がいて初めてなりたつ。
騙されてたって、それは私が存在する証明になるだろう。

とことん疑って出した答えが偽だとしても、それが答えだと教えてくれる存在がいます。

デカルト哲学への否定

「我思う、ゆえに我あり」を見ていきました。
では否定できる個所を見ていきます。

生得観念の否定

ロック
ロック

人間は生まれたときは白紙だ!

「タブラ・ラーサ」

デカルトが理性として説いた生得観念を否定する議論です。
人間は生まれたときは生得観念を持っていないけれど、経験と勉強によって賢くなるという考え方です。

こんな考え方もあります。

1に1を加えると2になる?
1と別の1を近づけても2になったり、それを引き離しても2になることが不思議でならない。

プラトン!?

数学的観念に疑問を持つ場合もあります。

心身二元論の否定

ここにいすがあるよ!さわれる。

私にはあるって思うのに、これを疑うの?


何かが存在しないという感覚は存在しません。
感覚によって知覚される通常の物的対象はどう語ればいいのかという疑問です。
またこんな疑問も浮かんできます。

心と体を分けて考えるなんて疑問だ。
自然が神だし、人間も自然の一部だよ。(スピノザ)


これはスピノザの一元論です。

花を分解していくと、花びらがあり、葉っぱや茎もある。
分解していくと、自然は数限りないものになる!(ライプニッツ)


これはライプニッツの多元論になります。

このように心身二元論も議論されています。

神の存在を論証しない

西洋の宗教の基盤である『聖書』の中には神の存在を論証しようとする発想が全くありません。
神の実在性を当然のこととして認めています。
(宗教の哲学 ジョン・ヒック 2019)

人間は考える葦である。
神は私たちの知っている領域を超える。
そこに信仰の意味がある。(パスカル)

パスカルは、神は人間にとっては知る範囲の限界を超えたものだと言います。

同じアイコン!?

1600年頃の流行りの髪型なんじゃないかな?

デカルトから自分の哲学へ


デカルトの「我思う、ゆえに我あり」を見てきました。

ただこの一つの文章に、たくさんの考えさせられる要素があることがわかります。

・生得観念とはなにか、それを持っているのか。
・心身二元論、心と体は離して考えられるのか。
・神とは何か、神は論じることができるのか。
 

他にもありそうだね!

時代はさかのぼっても、私たちはある問いにぶつかります。
その問いを考える過程が、哲学の歴史には詰まっています。

私はデカルトの言葉をただ漠然と受け入れていたけど、考える要素はたくさん含んでいるんだね。

考えるって何?と思った方はこちらもどうぞ。

<<自分の頭で考えるとは

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