現代は本であふれています。
紙で出版する以外にも、気軽にネット配信できるようになりました。
今では、本と言うものも議論する必要があるくらいに様々なかたちをとります。
新聞も、ニュースも、SNSに流れている読み物も場合によっては本と言えます。
膨大な情報に触れるのが日常となった私たちは、情報の取り方に戸惑いを覚えます。
この解釈は合っているのか間違っているのかわからないという問いです。
本の読み方について考えてみましょう。
【 作者の死 】とは
「作者の死」とは、ロラン・バルトが本を読むときに示した態度です。
ロラン・バルト(1915~1980)はフランスの批評家です。
バルトは作者の思想を知ることが「読む」ことではないとして、テキストと作者を切り話して考えました。(続哲学用語図鑑 参照)
バルトにとって作者は死んでいるも同然なので、「作者の死」と呼びました。
テキストと作者を分けて考えたい例としては、読者が作者自身に共感しないときです。
例えば、
☑ダイエットに成功した筆者がリバウンドしてしまっていた。
☑テキストから人類平等が取れるのに、作者は女性差別者だった。
☑世界平和を説きながらも自分の家族一人一人はみていない。
☑作者自身が犯罪をしていた。
などなど、あげればきりがないほど出てきます。
作者が嫌いだと、その本を読むのに抵抗を感じる。
それに対して、テキストと作者は切り離して考えるべきだというのがバルトの考えです。
けれど、作者を切り離して作品を理解できるのか、私たちは疑問になります。
これに対するバルトの答えを見ていきましょう。
作者の特権はあるのか?
バルトは、作者が「作品の真理を知っている」という特権を否定しました。
作者が言う真理が間違っている可能性や、作品に無意識の思想が書かれている可能性があるからです。
この態度は、バルトが人間を構造主義の視点から見ているからです。
つまり、人間は社会構造によって決められていると考えます。
作者が真理を知らない理由を詳しく見ていきましょう。
作者が真理を知らない理由① 文化
作者は自分の社会構造をすべては意識できません。
なぜなら、私たちが社会構造を意識するときは、その社会構造ではない社会との比較の中で気がつくことが多いからです。
例えば、

家に入るときには靴を脱ぐよ。

靴を脱がない文化も多いんだよ。

財布を落としたら届けられてた。

届けられる方が珍しいみたい。
私たちが当たり前に感じる文化の中には、他の文化から見ると特殊だと思われることがあります。
他の体験から気がついたとしても、意識するまでは無意識です。
作者は、当たり前で疑問に感じない無意識を作品に投影させています。
作者が真理を知らない理由② 記号
私たちは何を見ても純粋にそのものを見るのではなく、何かの記号として見ているとバルトは言いました。
例えば、

僕のことを記述しても、僕のことはわからないでしょ。

元気いっぱいとか子どもだとか、記号を使うね。

子どもっていう記号から、いろんなことを想像しちゃうでしょ。

記号から、本人を離れて想像してる。
バルトは記号からできた現代の世界を社会的神話の世界と呼びました。
神話といえば、太陽や善や悪などを擬人化して記号をそのものにつけます。
そのものを見ずに、記号で会話したり表現します。
私たちは無意識に記号を使っているので、記号を分析する学問が出てきました。
作者が真理を知らない理由③ エクリチュール
バルトはエクリチュールという概念を使いました。
バルトのエクリチュールとは、特定の集団で使われている言葉遣いのことです。
例えば、
☑女子高生ならば知っている特定の用語を使う。
☑ネット住民ならば知っている特定の用語を使う。
☑お嬢様ならば知っている特定の用語を使う。
☑オタクならば知っている用語を使う。
使うことで、その集団に馴染むことになります。
馴染むことで、気がつかないうちに自分がその集団の一部になっているのです。
マザー・テレサの詩を思い出しますね。
思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。
性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。
特定の思考によって、言葉づかいを選び取ることで自分の身なりや生活スタイル、運命すら変わってくるという詩です。
思考は選び取ることができたとしても、その後の変化は無意識です。
作者が真理を知らない理由④ 自分のことはわからない
私って何?
そのような疑問は哲学にある昔からの謎です。
自分のことはわかっていないのです。
自分がなぜこのような行動をしたのか。
なぜこんな夢を見たのか。
なぜ不快になったり、感動したりするのか。
自分のことは自分が知っている。
自分のことは他人の方が知っている。
このどちらを聞いても、私たちは納得してしまいます。
それは、テキストにしても同様で、テキストだからわかるというものではありません。
バルトが「作者の死」と言った理由
作者が作品の真理を知らないことを見てきました。
けれど、バルトが「作者の死」と死までつけた理由はなんでしょうか。
バルトは「読者の誕生」という概念を唱えました。
死に対して誕生と言ったのです。
テキストを作者なしで読んでいくことは、読者が創造的な能動行為をしていることになります。
読者によってテキストが創り上げられているのです。
読者が新たに批評を生み出していると言えます。
>>「読んでいない本について堂々と語る方法」はこちら
テキストを読んでいると、なぜこのような思考の経緯をたどっているのか。
なぜこのように記述してあるのか。
さまざまな謎が思い浮かびます。
その回答には作者の言いたいことを考える必要はないとバルトは言います。
作者の支配から自由になって、どのように作品を読んでも正誤はないのです。
そのように考えていくと、ある疑問が浮かびます。
私たちはなぜ作者が真理を知っていると思っていたのだろうか、と。
国語の試験問題では、正誤を問いますね。
その読み方も見ていきましょう。
【 作者の死 】と対立する立場
テキストに書かれていないことまで著者の気持ちになって読み解いていく学問を解釈学と言います。
古代ギリシャに起源を持ち、著者の言いたいことを読み解いていくという学問です。
国語の試験問題はそれにあたります。
確かに、真偽を問う時にテキストの内容が読み取れなければ、文化比較はできません。
新しく学ぶということも難しくなります。
決定的なのは、本の翻訳ですね。
その著者の書いてあることを知りたいからこそ、私たちは翻訳を読みます。
翻訳者が好きということもありますが、翻訳は忠実に再現されていると読者は思い込みます。
哲学的解釈学の代表人物はドイツの哲学者ハンス・ゲオルク・ガダマー(1900~2002)です。
「理解されうる存在は言語である。」と言いました。
ガダマーも著者自身に関心は寄せませんが、著者の文章からいいたいことを読み解くことができるという立場です。
質問一つ一つに受動的に答える立場を認めています。
バルトが言ったことに納得してもガダマーの意見にも、試験を受ける私たちは納得させられます。
批評家としてのバルト
解釈学者としてのガダマー
それぞれの立場の意味を取り出すことができます。
さて、ここで作者と著者と記述を変えていたことに気がついたでしょうか。
バルトは作者について述べ、ガダマーは著者について述べています。
作者とは、芸術作品の作り手。(広辞苑)
著者とは、書物を著作した人。
本をどのように捉えるかによっても違ってきます。
ただ、ガダマーは解釈をした後に、私たちの能動的立場を認めています。
ガダマーの「地平」
解釈学では、文章から著者の主張を読み取ります。
しかし、ガダマーは解釈学にとって重要なのは、解釈内容を今の私に活かすことだと言います。
今の私に活かすとはどのようなことかを見ていきます。
今の私に活かす① 偏見をなくす
私たちは、本を読む前に先入観を持っています。
ガダマーはその先入観のことを地平と言いました。
ガダマーは先入観がなければ、他者との真の対話はできないと言います。
なぜ地平と言い直したのかというと、実際の地平線を意識させます。
地平線を想像させ、私の地平の範囲はここ。
相手の地平の範囲はここだと意識させます。
一人一人の人間の視点が違っていること(意味の場)を表すために地平といいます。
著者の文章と自分で対話を重ねながら、相手の地平との融合を起こすことで自分の地平が広がると考えます。
地平が広がり、地平融合が起こることで他者を理解できます。
自分が初め1の思想を持っていたとしたら、相手を取り込んで1+1になるイメージです。
ガダマーは地平融合を繰り返さなければ、地平は単なる偏見になると唱えました。
今の私に活かす② 対話によって私の例に当てはめる
著者を解釈した後は、対話によって能動的立場になります。
このことは、教育を受ける際に意識できます。
著書を読んでその通りに実行したとしても、現実生活ではいろいろなバージョンがでてきます。

それはこうした方がいいよ。

あっ、考えればそういう内容になってた。

いろんなバージョンに当てはめられるんだよ。

この脳内での対話は役立つ!
対話で自分の解釈を広げていくことで、実生活に役立てることができます。
物を売るにはどうしたらいいのか。
嫌いな人がいる場合には。
子育てでこのようにした方がいいと言われたけど、この場合はどうなるんだろうか。
本には実例は書いていないけれど、対話の中で想像して答えを出します。
自分の中で問いを立てながら、いろいろな解釈をして今の私に活かしていきます。
著者の文章と対話をすることは能動的です。
【 作者の死 】まとめ
「作者の死」とは、ロラン・バルトが本を読むときに示した態度です。
作者の死ということによって、読者の誕生という概念を唱えました。
読者の誕生とは、読者がテキストを自由に能動的に読むことを示しています。
作品には作者の特権はないとバルトは言います。
作者は真理を知らないのだから、自由に解釈しても正誤はないのです。
反対に、書物自体から筆者の伝えたいことを読み取る学問は解釈学です。
国語の試験問題で正誤がある理由です。
ハンス・ゲオルク・ガダマーは、解釈として正誤はあるけれど、それだけで終わるのは本当の読書ではないと言います。
書物を読んで、筆者の文章と対話することによって自分の地平(先入観)が広がっていくと述べました。
受動的な態度の後の、能動的な態度に自分の地平を広げる要素をみつけます。
自分の地平が広がらないとしたら、それは先入観ではなく偏見だと言いました。
芸術作品を楽しむ読書の仕方や、教養としての読書の仕方を彼らは示しています。

本によって読む速さも違うし、ジャンルも違う。
一言で読書とは言えなくなるね。
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