人には「受動的総合という至福」があるとドゥルーズは述べます。(ドゥルーズの哲学原理國分功一朗著)
「受動的総合という至福」とは、人は新しさを毎回求めているわけではなく、習慣の中にたたずむことを望むという態度です。
つまり、何も考えないでいることが幸せという態度です。
ここからドゥルーズは「人がものを考えることがあるとすれば、それはもう、仕方なく、やむをえず、強いられてのことでしかありえない。」と言います
私たちは積極的には考えないのです。
しかし、時代の流れとしては考えることに主体性や意志を見いだしてきた時代がありました。
その時代の流れからドゥルーズの思考はどのようにして生まれたのか。
時代の流れと共に、ドゥルーズの思考を追っていきます。
そして、流れとともにショーペンハウアーの思考にも触れていきます。
私には類似している点がみられるからです。
ジル・ドゥルーズ(1925~1995)はフランスの哲学者で、ポスト構造主義に代表されます。
まずは歴史から、昔の思考と今の思考との違いを見ていきましょう。
実存主義の思考と構造主義の思考
思考を実存主義と構造主義の2つに区切ります。
まずは時代を見てみましょう。
⇩
近代(自由の思想)
⇩
現代(現在の社会を過去の社会と区別)
と進みます。
近世から近代への移り変わりは、フランス革命(1789年)で人々が絶対王政から民主国家に移ったことに代表されます。
主に近世と近代に位置する実存主義の考え方からみていきましょう。
実存主義の思考
実存主義の走りはパスカル(1623~1662)だといわれています。
「考える葦」に実存主義が見られます。
人間の知性や理性には限界があると言い、それでも限界を自覚することができる「思考」に人間の尊さを見ています。
そこから実存主義の創始者、キルケゴール(1813~1855)に向かいます。
「あれか、これか」と自分で選択した真理を信じるキルケゴールの考え方です。
実存主義とは、主体的に生きる私にとっての真理を追究する立場です。
人間が主体的に生きることを実存と呼びます。
実存主義の到来は時代で見るとフランス革命が終わったばかりの頃です。
その頃、絶対者に支配されていた人々は、民主国家をたてることで自由を手にしようとします。
支配下の中だと、人はその支配から解放された先に自分の実存や自由があると期待します。
自由意志や主体性を持った人間という期待が、実存主義の中に見られるのです。
実存主義では、考えることで主体的に生きることを想像しています。

それは僕の考えだよ。
僕は特別な存在なんだ!

うんうん、君にとっての真理を追究しているよね。
しかし時代は移り、そこから構造主義という考え方に移ります。
構造主義の思考
構造主義の創始者はレヴィ=ストロース(1908~2009)といわれています。
レヴィ=ストロースは1960年代、構造主義をとなえました。
「世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう。」
この彼の言葉の「人間」は実存主義で説かれていた主体性を持った人間のことです。
レヴィ=ストロースは実存主義を批判して、構造主義の時代を決定づけました。
どのように批判したのかと言うと、人間の考えは構造に規定されていると述べたのです。
人間の主体性に疑問を抱きます。
さらにこの疑問はミシェル・フーコーによって明確にされます。
フーコー(1926~1984)は私たちはパノプティコンという監獄にいると述べました。
監獄に閉じ込められ、監視されながら何かをしたとしても、そこに人間の主体性は見いだせないと説いたのです。
「人間は波打ちぎわの砂の上に描いた顔のように、消滅するだろう。」と彼は言いました。
この人間も実存主義の人間像に対して述べられています。
他にも、私たちは国家のイデオロギー装置の中にいると説いたアルチュセール(1918~1990)。
私は外部から自分を形作ってきたと説いたラカン(1901~1981)。
ここに構造主義が完成し、主体性を批判された実存主義者は反論できなくなりました。
ドゥルーズの思考は構造主義の中から発生しています。
けれど、私はドゥルーズの思想とショーペンハウアーの思考に類似点を見出しています。
ショーペンハウアーは(1788~1860)頃の人物で、構造主義とは関係がないのです。
それでも、自由意志を否定するはしりはショーペンハウアーだといわれています。
それに、構造主義的と言われるフーコーの「生の権力」と、ショーペンハウアーの「盲目的な生への意志」には共通性を感じます。
ショーペンハウアーとドゥルーズの思考に対する考え方を知ることで、私にはドゥルーズの思考がさらに明確に映し出されるのではないかと考えます。
では、ショーペンハウアーの哲学はどのように言われてきたのかを見ていきましょう。

主体性を持て、と先生に言われた。

そう言われるのも押しつけになりそうだよね。
構造主義の思考の発生
マルクス・ガブリエル著「『私』は脳ではない」では、自由意思という概念を極端に先鋭化させたのはショーペンハウアーだと述べます。
「ショーペンハウアーはこの世界の構造の中に自由の居場所はない」と考えていました。
ショーペンハウアーは道徳的だと考えられるものや、美徳だと考えられるものなどのすべてを生存意志や生殖意志だと理解しようとしたのです。
確かに、言葉にされたものに対しては、すべて批判ができるかもしれません。
例えば、母親が赤ちゃんをとっさに助けるのも、なにか自分のための理由が存在すると述べ、道徳を批判します。
このように、ショーペンハウアーは自由意志を否定しました。(肯定する立場はカントの道徳法則)
自由にものごとを選択する意志の否定です。
彼にとっての意志は、人間の行動はただ自然の法則に従っているだけの盲目的な意志だというのです。
人間はそもそも自由にはなれずに、盲目的な意志に従わされていると述べます。
「意志は人間の運命であり、それは私たち人間にはそれぞれの人物としての性質があって、それがただ、あれかこれかのどちらを欲するのかを決定している」と彼は述べているのです。
例えば、私がケーキを食べてしまったのは生存意志のせいかもしれません。
好きな人のために誕生日プレゼントを買おうと思ったのも生殖意志のせいかもしれません。
人の性質からの盲目的意思が、私に行動をさせるのです。
けれど、マルクス・ガブリエルはショーペンハウアーの盲目的な意志に対して批判します。
ショーペンハウアーの意志「意志という能力の活性化は私たちの意のままにはならないが、意思なしには私たちに行為の自由はない」に対しての批判です。
これに対し、どうして意志が存在するということを前提にしているのか、と批判しました。
そもそも盲目的な意志というのは、私たちが言う意志とは一致するのでしょうか。
実存主義が持ち出している主体的に決めようとする意志とは違っています。
ショーペンハウアーは盲目的な意志と言いましたが、これは意志ではない、ということもできるのです。
そう判断すれば、これは構造主義の走りとも取ることができます。
人の生存意志や生殖意志という構造から人間を理解しようとするからです。
そのように説いた彼の思想は厭世主義(ペシミズム)と言われています。
「最悪」を意味するラテン語(pessimum)に由来しています。
なぜそういわれるのかと言うと、世界は不合理で、盲目的意志が支配している。
人間には存在への欲望があるだけで目的や意味などはなく、ただ自然界の法則に従って生きているだけだとショーペンハウアーは言うのです。
それに対して当時は実存主義が主流だったので、ペシミズムというような呼ばれ方をされたのではないかと私は推測しています。

僕が決められないなんて最悪だ。

最悪は言いすぎじゃない?
彼の自由意志批判は今でも議論をよんでいます。
このように説いたショーペンハウアーですが、彼の思考についての考えをみる限りにおいて、そこに人間の尊厳のような「何か」を見出そうとしている痕跡がみられると私は考えました。
ただ世の中に苦しみを見ているだけではない、と読み取れるのです。
ショーペンハウアーの「読書について」から、人はどのように思索するのかをみていきます。
ここで思考を思索と述べるのは、翻訳において思索とされているからです。
思索は思考の類似語ですが、論理的に筋道を立てて考えるという意味がより強くでます。
ショーペンハウアーにおける思索
彼の思索に対する思考をみていきましょう。
だがさらに考えるとなるとまったく別である。すなわち思想と人間とは同じようなもので、かってに呼びにやったところで来るとは限らず、その到来を辛抱強く待つほかはない。
「読書について」p15 ショーペンハウアー、斎藤忍隋訳
ー思索がこのように意志とは関係がないということは、我々の個人的問題を考える場合に照らしてさえも明らかに説明される。
まずはこの時点で、思索が意志とは関係がないと述べています。
人は盲目的な意志に従わされているけれど、その意志は思索には関係がないのです。
そして、表に現れる思想に対しては違いがないと語ります。
すべての思想家の間には基本的な一致点があり、相互間の相違はただそれぞれの立場の相違から来るにすぎない。-彼らのだれもが同じことを口にするばあいがある。それは彼らがただ客観的に把握したこと以外は言葉として表さないからである。
「読書について」p14
表面的にでてきた思想は一致する場合があると言います。
この二つの記述から、一般的に見て取れる意志や思想を想像するとかえって逆の意味にとられてしまいます。
人間に意志はなく、しかも、その思想は人によるオリジナリティやアイデンティティがない、と。
自分だけの考えだと思っていたものは、結果において他人と一致し、思索に私だけのものを見出すことができないと嘆くかもしれません。
このように考えると、厭世的になるかもしれません。
しかし、彼はこれと同時にこのようなことを語ります。
第一級の精神にふさわしい特徴は、その判断がすべて他人の世話にならず直接自分が下したものであるということである。-その判断は君主が決定する場合のように自らの絶対的権力から下され、自分自身にその根拠をもつ。
「読書について」p19
思索の結果が同じだとしても、思索に意思がなかったとしても、思索をする第一級の精神を見出しているのです。
さらに、引用します。
ショーペンハウアーは自分のために思索する者が真の思想家であるといい、続けてこう言います。
すなわち第一に彼らのみが真剣に自分を打ちこんで事柄を知ろうと努めており、第二にまたこの知を得る努力、言い換えれば思索にこそ彼らの存在の楽しみも幸福もあるのである。
「読書について」p22
このように思索する精神や、自分のための思索に存在の楽しみや幸福を見出せると述べます。

見て!この絵にはこの色がいいって考えたよ!

芸術的!そんな発見楽しいね。
しかし、実存主義的な思考からは疑問が浮かぶかもしれません。
意志がないのになぜ存在の楽しみや第一級の精神を見出だせるのか、と。
それはショーペンハウアーの意志が「盲目的な意志」という意味だからです。
ショーペンハウアーの「意志」とは
実存主義では人間の主体性というような「良い」意味で使われていたものが、彼においては「悪い」意味で使われているのです。
私たちは意志によって支配されているのだ、と。
しかし、彼はいいます。
思索には意志がない、と。
この意志がない思索に人間存在の楽しみや幸福を見つけているのです。
実存主義の意志:主体的に生きる意志(「良い」意味)
このように意志において意味が違ってきます。
では、思索は意志に関係がないとすれば、人はどのように思索するのでしょうか。
その解の一つに、ショーペンハウアーが天才主義であることが考えられます。
なぜかというと、このような一級な精神を持つ者や、自分の為の思索ができる者が限られていると語るからです。
実はほとんどの人は考えているようで、それは「悪い」意志と関係があると述べます。
例えば、今日の夕飯は何にしようかな、など人間の生存意志や生殖意志からの思い浮かんだものは彼によれば思索とは言いません。
そこに意志が見つけられてしまうからです。
それを思索と言えないならば、私たちの思索を成り立たせるものは何か、と疑問になります。
ショーペンハウアーは遺伝や身体的特徴と見ていたのではないかと私は考えます。
詳しく見ていきます。
身体的特徴に違いを見ている点
ショーペンハウアーはどこに天才と凡人の違いを見出したのでしょうか。
私は人間にもとからある性質にその違いをもとめたように推測されます。
日常人は身体的努力をいやがるが、それにもまして、精神的努力を嫌うものである。-
大多数の人間は、その本性上、飲食と性交以外の何事にも真剣になれないという性質を持っている。
「知性について」細谷貞雄訳p126,127
このような記述からうかがえます。
何を性質と言うのか。
例えば、生まれながらに足が速い人。
将棋の名人が努力だけでは持ちえない才能。
産まれながらにあるIQの差。
人によって性質の差が現れ、何かに秀でている場合はその天才だと見ることができます。
ショーペンハウアーの場合だと、思索をする天才を見ていました。
しかも、それにどれほど取り組んだかという量ではなくて、質をみています。
現代でも今の社会を生き残るには得意なものを活かそう、と言われていますね。
その根拠を示すような実験があります。
遺伝によりIQの差が個人にあったとします。
その差をなくそうと幼いころからの教育に力をいれることにしました。
子ども時代はその教育の賜物でIQの差がなくなるそうです。
しかし、何十年もするとそのIQの差が元に戻ってしまうという研究結果があるそうです。
英才教育の効果は永続的ではないのです。
もっと身近な例で例えてみます。
ダイエットをして痩せることに成功したとしましょう。
しかし、気がつくと元に戻ってしまってなかなか維持ができないことに気がつきます。
その人の傾向によって外的な要因が維持されるのかが決定づけられているのです。
つまり、ダイエットが得意な人は体型を維持しやすい。
マラソンが得意な人はマラソンが速いことが維持しやすいといったことです。
ここだけ切り取れば、人同士の差別につながるかもしれません。
しかし、能力差はしばらくそれに打ち込まないとわかりませんし、才能がなくても似たような働きができることも分かっています。
誰でもできる思考の方法、例えば思考の道を開けておくなど、をショーペンハウアーは語っています。
また、天才と言われている人も、自分では自分のことを凡人だと言っていたりしますね。
ショーペンハウアーの考えをまとめます。
②思索に第一級の精神を見いだしている
③思索の方法を編み出そうとしている
④客観的に見られる思想だけでは見られないものがある
ショーペンハウアーは自分を明らかに天才と語っているので、文章中に登場する天才は彼自身のことを述べていると考えられます。
実存主義の時代から構造主義のことを考え、今でも議論されている自由意志否定について言及していることからも思索の天才だと見ることができます。

時代が私に追いついていない。

だから、大学の講演も人気がなかったんだよね。
では、このまとめからショーペンハウアーとドゥルーズの共通点を見ていきましょう。
ショーペンハウアーとドゥルーズの共通点
先ほど述べた①~④を見ていきます。
①思索には意志がない
真理は、前もって存在する積極的意志の作り出すものではなく、思考の中での暴力の結果である
「ドゥルーズの哲学原理」國分功一朗著p88
理解としては、人はものを考えようと思って思考することはできず、何らかに強制されて初めてものを考えることができると述べています。
例えば、お味噌汁を何気なく飲んだときに昔の記憶が思い起こされるようなことです。
「人は思考するのではない。思考させられる。」
人間にはものを考えようとする意志などなく、仕方なくものを考えるという態度です。
「盲目的な意志」を理解してから見ると、ハイデガー(1889~1976)からもショーペンハウアーとドゥルーズの類似点を見て取れます。

ハイデガーが言うには、人間っていまだ思考してないんだって。

思考してるんじゃなくて、思考させられているからだね。
ショーペンハウアーの言う盲目的な意志に支配されているという観点から見ると、人は思考をしているとは言えません。
意志の支配から外れているときに、「シーニュ」(しるし)の支配を受けて思考させられているときに、思考がでてくるのです。
ここで述べた「シーニュ」(しるし)とは、人に強制させて思考を呼び起こすものです。
(ちなみにドゥルーズは思考を呼び起こすものを暴力、ハイデガーは贈り物と述べています。)
ハイデガーは「我々がいまだ思考していないという事実そのもの」がシーニュ(しるし)になると述べるそうです。
ショーペンハウアーやドゥルーズはそのシーニュに強制的に考えさせられてきたと言えます。
次に行きます。
②思索に第一級の精神を見出している
「思考することは、生の新たな可能性を発見し、発明することを意味するだろう」ー
「ドゥルーズの哲学原理」p88
ドゥルーズにとっては、思考することこそが、「生」の新たな可能性の発明・発見であった。思考によってこそ「生」は変化する。
國分功一朗はドゥルーズが問いとして追究したのは、もっぱら思考の問題だと述べます。
今でも人間を定義するときにホモ・サピエンスと使いますね。
考えるヒトです。
考えることに人間の第一級の精神を見出していると言えます。
ドゥルーズは考えさせられることは暴力だと言うのですが、そこには生の新たな可能性を発見しているのです。
③思索の方法を編み出そうとしている
ドゥルーズは思想において出来事のみを理論として認め、人間的な気持ちをすべて放り捨てると國分功一朗は説きます。
この理論は好きだから採用して、これは嫌いだから選択しないという主体的な人間の態度を放り捨てるのです。
これは思考を積極的にすることができないことに対する諦めなのでしょうか。
それに対してこんな文章があります。
「出会うこと、それは見出すことであり、捕獲することであり、盗むことである。ただし、長い時間をかけて準備すること以外に、見出すための方法など存在しない」ー
「ドゥルーズの哲学原理」p96
待っていれば思考を強制するシーニュとの出会いが訪れるわけではない。
シーニュとは思考を強制する「しるし」のことだと先ほど述べました。
私たちはシーニュによって強制的に考えさせられるのですが、シーニュは読み取られねばならず、またその読み取り方は習得するものだと言われています。
例えば、ショーペンハウアーは「読書とは他人にものを考えてもらうことだ」といいます。
それは、本を読んだだけでは私が考えたことにならないからです。
何か具体的な自分の中のシーニュと合わさって初めて自分の頭で考えたことになるのです。
何度でも読み返しては他の解釈ができる本がありますよね。
そのような本は私の中のシーニュを刺激することで私に思考させているのです。

僕、この文章を5回くらい読んでやっと理解できた。

君のシーニュにやっと触れたんだよ。
ショーペンハウアーは本からは「材料」を得るのがいいと述べます。
「材料」を通して自分で創作したり、「材料」がシーニュになったりします。
これに対し、ドゥルーズは何度も再認識が起こって考えさせられていると述べます。
そのものに触れるたびにシーニュにさわり、変化がもたらされるのだと。
ドゥルーズによれば失敗の経験が変化には有効になるそうです。
二人ともシーニュによる創作や変化に触れています。
ここでは二人とも思考がどのようにされているかを見ていました。
思考は強制されるものであっても、そこに思考の方法を編み出そうとしています。
④客観的に見られる思想だけでは見られないものがある
ドゥルーズは問いをやめません。
「出来事」に対して、出来合いのものとして前提することはできないと考え、超越論といわれる哲学の前提に正しい問いを投げかけていきます。
問いは新しい概念を作ります。
「超越論的探求の特徴は、ここで問いをやめたいと思うところでやめるわけにはいかないというところにある」とドゥルーズは述べています。
そこには完成された思考は存在していません。
記述だけでは捉えられないものを見ているのです。
さらにこのような記述があります。
「哲学史は、或る特定の哲学者が述べたことをもう一度述べることではなくて、哲学者には必ず言外にほのめかしているものがあるが、それは何か、哲学者本人は述べていないけれども、彼の語ったことの中に現れているものは何なのか、ということを語るべきである。」ー
思考は、哲学者の意識を超え出る、より広い範囲に及んでいる。
「ドゥルーズの哲学原理」p22,23
ドゥルーズは思考で語られたもの以上の思考を探そうとしています。
ここで、思考の過程として中動態としての思考を考えてみます。
意志がなかった頃にあった文法に中動態があり、國分功一朗はここに思考を見ています。
中動態としての思考
ドゥルーズの思考は主体性や意志はもたないけれど、生の新たな可能性を持つ人間をつくりあげようとしています。
ドゥルーズの思想は、「生成変化」や「革命的になること」など、世界の変革に直結するかのような概念に彩られている。だが、のちに見るように、他方でドゥルーズは受動性に重きを置く哲学者でもあり、意志や能動性といったものを徹底的に疑っていた。
「ドゥルーズの哲学原理」p6
その生の新たな可能性を調べていく上で、ドゥルーズが意志や能動性を疑っていたと述べられています。
中動態の解説はこちらを参考にして欲しいのですが、ハイデガーもドゥルーズも意志がなく能動でもないこの中動態に思考を見い出していると考えられます。
思考の過程なのでまだ言語化されていないことが数多くあります。
能動的ではないから消えてしまう思考ではなく、中動態としての思考です。
二人の類似点ーまとめ
簡略化してみます。
「盲目的な意志のない思索」に存在の喜び
ドゥルーズ
「意志や主体性のない思考」に生の可能性
このように意志や主体性を持ち出さない思考は「厭世的」と捉えられてしまうかもしれません。
しかし、その状態の中で思考する方法を見つけようとしているのです。
ショーペンハウアーは盲目的意思がないことに対して、かえって自己存在を見出す。
ドゥルーズは主体性を再定義したり、問いつづけることに可能性を見ていました。
ドゥルーズは問いを命令として見ていたので、思考することにおいても「受動的総合という至福」が一見すると当てはめられます。
しかし、思考は変化を伴うとドゥルーズは言います。
受動的総合という至福は変化しないことを幸福というので、変化を伴う思考のことをドゥルーズは暴力というネガティブな表現を使って表したと考えられます。

僕は考える。僕は考えさせられている。

文法に注目しちゃうね。
ドゥルーズとショーペンハウアーの類似点を見てきました。
類似点から思考の共通点が見つけられ、さらに思考を考えていくことができました。
最後に、なぜ人が意志に主体性を見出してきたのか、歴史から見ていきましょう。
主体性を想像しようとした時代
哲学では、そこにあるものを発掘します。
ただ哲学は思考することで明らかにするだけなのです。
では、なぜ実存主義では主体的な自己があるものとして語られていたのか。
実存主義が発生した時代は民主国家ではありませんでした。
人々が王族などに支配されていました。
強いられていたからこそ、主体的で自由な自己を想像しながらそれを実現しようとしたのです。
そして、今ではほとんどが民主国家になりました。
物理的な支配からは解放されたのです。
しかし、他者から自己は出来ていて規定されているのだと知るに至ります。
構造主義の到来です。
知ることによって、自由ではなくなりました。
主体的な自己によって手にした民主国家だったのですが、実はそこに主体的な要素がなかったのです。
パノプティコンに代表される監視社会です。
人は知らないからこそ自由である、と考えられます。
「私たちが自分を自由だと考えるのは、すべての出来事に必要な条件をなにも知らないからである。
私達の自由の本質は、本当は自由ではないことを悟れないことにある。」とマルクス・ガブリエルは語ります。
つまり、知らないからこそ自由だと言うのです。
このようにして、実存主義の時代の思考は主体的だったのですが、私たちは知ることで国家のイデオロギー装置にいること、パノプティコンにいることに気がつかされたのです。
そして、近代ではポスト構造主義から前の思想に戻ろうとする動きが見られています。
知る前の状態に戻ることになるのではないかと。
民主主義が進むまでは絶対的な権力者がいて、そのせいで私たちは苦しめられているという見解がありました。
支配されているからまだ主体性が発揮されていないという錯覚。
主体性を創造したいからこそ、主体性に希望を見出す実存主義がでてきたのではないかと見ることができます。
では、構造主義において私たちは人間のすべてを知ったのか、という疑問がでてきます。
自由でなくなるにはすべての条件を知る必要があるからです。
しかし、すべてを知ることは不可能なので、私たちには自由があるといえるのです。

僕は何でも知りたいな。

知れば知るほど無知の知を発見しちゃうね。

それって、逆を言えば知るほど自由にもなるんだね。
知るほど無知になるという例として、中動態や自由意志の両立論を見ていくことができます。
ここに何かを想像しながら、自分の期待するものがないかを探っていくのです。
そこで中動態や、自由意志があるとする両立論の可能性に触れてみます。
中動態と両立論に可能性を想像する
意思が出てくる前の時代にさかのぼって、意思や主体性がなかった中動態に目をつけます。
中動態は、まだ表されていないものでもあります。
あれやこれと選択する前の状態になります。
表わされていない状態に自分の期待するものがないかを想像できます。
また中動態だけではなく、弱い自由意志を両立論に読み取れることもあります。
意識するまえの無意識下の選択のことです。
マルクス・ガブリエルは自由意志があるといっているのですが、そのあるとする根拠としては選択するまえにも無数の自己選択を無意識にしているからだと述べます。
このような見解は次のシーニュになり、私たちを新たな問いに誘います。
昔の人々が王族支配の解放に自らの主体性を想像したように、中動態や弱い自由意志に私の期待を想像していけばいいのではないか、と。
ここでの期待とは、私たちがおぼろげに感じている「私」だったり、「私の存在」に何かあると感じているものです。
実存主義では否定されてしまった人間がもつ意志や主体性にかわるような、人の尊厳のような「何か」。
人間には「何か」があると私たちは想像することができます。
例えば、ホモ・サピエンス、ホモ・ルーデンス、ホモ・ファーベル、などなどたくさんの定義があるように、模索されています。
想像してここにないものをここに存在させてきたように、その想像が否定されたのなら、また新しく想像できます。
否定の連続が哲学の歴史になっています。

僕は個性的でいたいから個性を想像してみる。

それが新しく普遍的な概念になることもあるよね。
支配による抑圧に対して希望的観測から主体性を見出すのではなく、現実を知った上で私とはなにかを見ていけるのではないかと私は想像しています。
ドゥルーズの思考ーまとめ。
「最も熟思されるべきものとは、我々がいまだ思惟していないということ」だとハイデガーの引用をドゥルーズは述べます。
これがドゥルーズのシーニュになっています。
主体性や自由意志を持たない私ではあるけれど、無意識下の私がいます。
ドゥルーズは問い続けていました。
その中でまだ想像して期待されうるものをドゥルーズは探していたのではないかと見ることができるのです。
歴史の流れを図にします。
ルイ・アルチュセールの言葉を借りるならば、思考に置ける認識論的切断が矢印の中にみられます。
ここでは主に実存主義⇨構造主義の矢印を見てきました。
そこから2つの考える私が見いだされるのです。
以後:主体的でない考えさせられる私
そして、その態度は決して厭世的ではなく、思考することを通して自己を見ていこうとする態度です。
最初に浮かぶ主観的な想像は、客観的な論理により規定させられていきます。
そのときにまた新しい「何か」を想像することは、人間の自由をさらに広めていくことになります。
そこに期待できるものを創造するからです。

私がショーペンハウアーに興味を持っていた謎が一つ解明した気がする!
参考文献
「ドゥルーズの哲学原理」國分功一朗著
「『私』は脳ではない」マルクス・ガブリエル著
「哲学用語図鑑」田中正人著
「読書について」「知性について」ショーペンハウアー著
ラジオで聞くならこちら。
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