私を知るために役立つこと。①哲学はどう役に立つのか。

哲学は役に立つ雑談哲学

哲学は役に立つのか。

そのような問いをよく聞きます。

役立たないという人がいたり、役立つという人がいたりといった多様な回答です。

その中で、私は「自分を知ることに関して役に立つ」という立場になります。

様々な普遍性を帯びる事柄と出来事を結びつけるような哲学をしていけば、読む人の自己発見につながるのではないかと考えたからです。

これをシリーズ化します。

第一回目として、哲学がどう役に立つのかを考えていきます。

まずは、哲学とは何かを規定していきましょう。

哲学って何?

やればやるほど、一言では答えられなくなるんだよね。

哲学とは何か

哲学の意味を広辞苑から引用します。

哲学(philosophy)

(philosophiaは愛智の意)

物事を根本原理から統一的に把握・理解しようとする学問。古代ギリシャでは学問一般を意味し、近代における諸科学の分化・独立以降、諸科学の批判的吟味や基礎づけを目ざす学問、世界・社会関係・人生などの原理を追究する学問となる。

広辞苑

この意味に基づいて、私は3つの事柄を哲学だと規定します。

①知を愛すること
②〇〇でない学問
③根源を問い直す学問

まずは知を愛すること、という意味を述べていきます。(こちらでも扱っています。)

どうして定義じゃなくて規定?

定義は○○=○○で一つなんだけど、私は3つ述べているからだよ。

知を愛するとは

知を愛することと規定する理由は、「philosophiaは愛智の意」という部分からです。

では、どうすれば知を愛することになるのでしょうか。

私は知を増やすことだと考えました。

そのために、知と知ではないものとして感情とを区別します。

知るとは抽象的な意識のことであり、理性が総じて、概念とは別の仕方で認識されたものを、概念の中に固定させることである。-

とほんとうに対立しているものは、(Gefühl)である。-

情(もしくは感情)ということばが示す概念は、どこまでもネガティヴな内容のみをおびている。意識の中にありありと浮かんでいるものが概念ではないこと、理性の抽象的認識ではないこと、といったネガティヴな内容のみをおびている。

意志と表象としての世界Ⅰ ショーペンハウアー 西尾幹二訳 p115,116

ここで述べられているのは、知でないものが感情だと規定すると言うことです。

私達の意識にのぼってくる部分は無意識下のほんの一部です。

例えば最新の科学的エビデンスが詰まった本「ヤバい集中力」(鈴木裕著 2019)では、私が述べる知の部分を調教師、感情の部分を獣にして例えています。

獣のすごさを引用します。
「獣は情報の並列処理が大の得意だからです。獣のデータ処理力がなければ、人間はまともに生活できません。(p34)」
獣は秒間1100万もの情報を処理し、瞬時にあなたの身体を乗っ取るパワーを持ちます。(p35)」

これが獣の優れている部分の一部です。
調教師はデータの直列処理しかできません。

人間は調教師がいなくても生活できますが、獣なしには生活できないのです。
無意識にやる動作一つ一つが出来なくなるからです。

ここで私が述べたいことは、人間のほとんどが知でない部分だと言うことです。

しかし、意識したときに初めて知になります。

意識することで感情が知になっていくと言うことです。

ここで知を愛することとこの事実を結び合わせます。

知を愛するとは、感情の部分を知に変えていく行為だと私は捉えます。

わぁ、びっくりした!

それ大事!なんでびっくりしたの?

知を増やすことを具体的に考える

日々の事柄を知にするために、「イデア」と「形相と質料」を考えていきます。

「真」に向かうことがプラトンのイデア、そのものの「本質」に向かうことがアリストテレスの形相と質料だと私は捉えますが、それを融合させたショーペンハウアーの「独自のイデア(個別のイデア)」に私は知を求めます。(人工物と自然物の違い 参照)

客観的側面がプラトンのイデア、主観的側面が「形相と質料」に相当すると私は考えます。

ショーペンハウアーは現象学的に物事をみているので、真に客観化された「イデア」にはたどりつけないと考えているのです。

例えば、サングラスをかけながら朝日を説明するようなことです。

私が主観的側面でどのようなフィルターを通しているのかを知らなければ、そのものを誤解したままになるのです。

「イデア」にはどうしても私の主観が入り込むのですが、それならば、その私の主観を知ることでそのフィルターをかけながら物事を見ているということが意識できます。

客観化にも段階があり、低位のイデアから高位のイデアまであるのだとショーペンハウアーは述べます。

低位のイデアは黒いサングラスをかけながら朝日を説明する、高位のイデアは透明な度の薄いメガネをかけながら朝日を説明するようなことです。

人には得意な分野と苦手な分野が、先天的にも後天的にもあります

その傾向を自分の「本質」から掴み、私にとって高位のイデアに到達できる物事は何かを考えられるのです。

高位になれば、プラトンの「イデア」に近づいていくのだと私は考えます。

僕は音楽を聴くのが得意!

私は苦手。じゃあ、君にとっては音楽で高位のイデアを見つけやすいのかもね。

私にとって探求しやすい知を具体的に見てきました。

私は私の現象から出発しつつ、自らの感情を様々な観点から客観化することを試みる

それが知を愛することだと考えています。

私は日々いろいろなことを感じますが、それを知にできるのです。

〇〇でない学問

哲学は〇〇でない学問と言われています。(こちらでも扱いました。)

例えば、精神分析学の元祖フロイト(1856~1939)は、精神分析学ができるまでは哲学者として分類されています。

なので、現代の哲学書でもフロイトの思想は様々な個所で引用されています。

学問が統計だっていけば新たな学問になっていくのですが、その元が哲学になります。

広辞苑の引用部分「古代ギリシャでは学問一般を意味し、近代における諸科学の分化・独立以降、諸科学の批判的吟味や基礎づけを目ざす学問」とありますが、諸科学は分化していないときは哲学であったのです。

そして、私はこのことから述べたいことは、私は何かを求めるときに様々な分野を引用できるということです。

何を引用しても問題はなく、学問ごとの規定を受け付けません

例えば、心理学的なアプローチをした後に、脳科学的なアプローチをする。

このように各学問を混ぜこぜにしつつも、「知」を追い求めることができるのです。

今回「私を知るため」として、哲学はもちろん、心理学も脳科学も社会学も、というように様々な学問を引用して「真」に至ることを実践していきます。

規定されていない学問としての哲学です。

美術の授業で学んだことから新発見!

その新発見は社会学でも言うことができるね。

学問の垣根を越えつつ、知を求めていきます。

根源を問い直す学問

私はこの部分を知識にしたけれど、これは本当なのだろうか、と自分を疑っていくことです。

哲学は根源から「真」でありたいと考える学問だと私は考えます。

「真」であるにはどうしたらいいのか。

「真」には主観的側面が入っているので、もしかしたら客観的側面はまったく違うことなのではないかと考えて再解釈ができるということです。

例えば、私は「バカ」といわれて悲しい感情になったとします。

なぜ悲しい感情になったのか。

私はそのことにコンプレックスを感じていたと気がつくかもしれません。

そして、もしそのコンプレックスがなかったら、悲しい感情は生まれなかったのではないかと考えます。

他の例として、ある物事に対面したときみんな悲しそうな顔をしている。

けれど、自分だけみんなと違う反応がある

そのときに、私のフィルターはなんなのだろうかと考えていくことです。

これは知を愛することと関わりがあって、知を広げるときに自分の根源を客観的に捉えます。

自分の感情と知識の結びつきが上手くいかなかった場合、私の発言は支離滅裂になっていることにも気がつけます。

その場合、そこに自分がなかったと実感することもあります。

自分がないことの発見

中身がからっぽだという比喩は、無知の知に繋がるかもしれません。

自分の感情が理解できると、知の規定がしやすくなります。

どっちでもいいよ。

自分の願望より、決めることの労力が大きいのかな。

哲学の歴史から根源を見ていく

哲学の歴史からも、前提を何に持ってくるのかでその哲学が変わっていきます。

例えば、現象学では自分のフィルターを通してみているのですが、見る行為ばかりが取りざたされてしまうという弱点を含みます。

そこを意識すると、身体の哲学に移っていく可能性が生まれていきます。

これは今の哲学の流れではありますが、他にも歴史的に変わったという事実があります。

パラダイムシフトでは、事実の探求によって天動説が地動説になるように、私達の常識的な見方も変化を迎えています。

そして、この歴史的な変化にともなって自分自身の見方も変化していきます。

哲学は根源を問いただしてきたからこそ、哲学はまだ「真」に至っていません。

哲学は過程である、というのはこんなところから来ています。

完結されたように見える哲学も、根源に謎が持てると言うことです。

根源を問いただすことで、様々な視点を獲得できます。

僕は論破が得意!

論破したくなる根源はなんだろうね。

3つの視点からの役に立つ哲学

実際に3つの視点から考えてみます。

シリーズ化するつもりなので、今回は簡単に一つの例を取り上げます。

例えば、なぜ旅が良いものと捉えられているのか

批判する事例として、哲学の第一人者カントはほぼルーティーンの毎日をおくったと言われています。

どこに旅行に行くでもなく、決まった散歩、執筆時間、読書時間、友達と話す時間などなどカントをみれば時間がわかったというほど正確なルーティーンだったようです。

では、なぜカントはあれほど偉大な哲学者になれたのか。

私は、そのルーティーンの中に組み込まれていた友人との会話や読書や散歩が重要だったのではないかと考えます。

カントは散歩をします。

散歩というのは脳の働きを活発にする作用があります。

その中で、自分が読んだ情報が知識になったり、刺激を受けて考えがやってきます

そして、それについて友人と議論をしたからこそ、多方面から考えることができたのではないかと思うのです。

これがカントで言うなのだと私は考えます。

カントは旅にでていないのですが、本からの情報が考えによって知識に変わり、人との関わりでそれが客観的に合っているのか、他の見方だとどうなるのかを吟味できます

インターネット社会からも考察します。

今では情報が溢れていますが、かえってその人にとって居心地がいいだけのような情報が流れてくる場合があります。

それをエコーチェンバーといって、私のある見方をもって検索をかけてしまうことで、その一方の見方が正しいと思い込むようなことです。

エコーチェンバーと旅を重ね合わせてみます。

旅について調べた場合、観光ガイダンスにあるようなものをそのまま受容することは、旅の意味がない、と言われているのを耳にします。

そのままの受容は新しい発見や自分の感情を意識できないからです。

自分にとって新しいことを発見すること、もっと詳しく言えば自分の感情が新しい感情を受容することが旅の意味ではないかと私は考えます。

旅は自己発見と捉えて、その内容を詳しく見ていきます。

①まず感情を知にすることを意識する
新しい光景を見たて感じたこと、自分が新しく感じた概念を意識する。

②散歩を脳科学的にも、エコーチェンバーという用語がでてきた社会現象的にも、さまざまな学問の垣根を越えて「真」に迫る

自分の主観的側面を疑って、客観的側面を捉えられるようにする
自分がある知識を得てびっくりしたのは、なぜなのか。
他の人はびっくりしない可能性があることを考えて再解釈していく。

旅というもの一つとってもこの3つの考え方をすることで、旅を再解釈していくことができます。

このような見方が出来ることで、自分の知的好奇心を刺激します。

その場合に「哲学が役に立つ」と言えると私は考えています。

耳が集中できないよ!

「耳が」って表現をする背景って気になるな。

哲学が役に立つとはーまとめ

哲学とは何かを3つの視点から述べました。

①知を愛すること
②〇〇でない学問
③根源を問い直す学問

ここから、どういった点が役に立っていくかを具体例を通して述べていきました。

人間の定義から考えてみます。

「ホモサピエンス」と私たちは言われていますが、その語源をたどると「賢い人間」「智人」などの部分が強調されます。

そして、人間という漢字からは間柄的存在もいわれています。

知を主観的に愛する、知を客観的に捉える、知をその両方から捉える、ということを私は述べてきました。

人間、「ホモサピエンス」の定義からも根拠立てられます。

哲学は「自分を知ることに関して役に立つ」のです。

あなたの感覚は私とどう違うのかな。

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